昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

2014年9月のブログ記事

  • 都電、バスの思い出

     青山通りは昭和38年ごろ拡幅されたと思います。それ以前、表町から渋谷に出かけるときは都電に乗って行ったと思います。  青山六丁目という停留所があって、その付近に青山操車場が見えました。門があって車両が並んでいるのを電車内から眺めて子ども心に物々しいと感じました。  現在は青山劇場ですか、こどもの... 続きをみる

  • 手みやげの飴

     青山のS工務店の奥さんは時々表町のうちに来ました。うちうちではS大工と呼んでいたのですが、その奥さんが必ず手みやげに七色の模様に染められた飴を持ってくるのです。どこの店で売っていたのか判りません。おそらく青山のどこかに店があったのでしょう。S工務店は青山南町にありました。 その飴は透明なガラス瓶... 続きをみる

  • 祖母からおこづかいをもらう

     4、5歳のころと思います。祖母が勤め先のM信用金庫にぼくを連れていってくれました。社内を見渡しても子どものことで何が何やら判りません。たまたまその日は外交が無かったのかもしれません。祖母は事務的作業を終えていっしょに家に帰ってきました。 信用金庫は赤坂通りに面した赤坂新町(赤坂5丁目)にありまし... 続きをみる

  • 給食

     戦後の給食は昭和20年に脱脂粉乳、昭和21年ごろアメリカ的なシチュー、といっても中身はミルクににんじんなどの野菜を刻んだものが入っているだけと聞いていますが、そういうものがN小学校で始まりました。保健のF先生が思い出を語ります。 「あのころトイレが汚くなったんです。生徒が飲み慣れぬ脱脂粉乳を飲む... 続きをみる

  • デパート

     幼稚園のころ、学校の門のところで母がぼくの帰りを待っていました。横断歩道を渡って平河町の停留所から都電の9番線に乗りました。赤坂とは反対方向で、「水天宮行き」でした。電車は三宅坂のところで右折しました。桜田門、日比谷を通って銀座2丁目の停留所で降りるとそこは銀座の繁華街です。 あとで判ったのは、... 続きをみる

  • 三輪車の思い出

     表町のころです。隣りはEさんの屋敷がありましたが、そこは売り払われて取り壊しの工事が始まりました。のちにCマンションが建てられるわけですが、たまたま工事のためにトラックがうちの門のところにバックして来て、付近に置いてあったぼくの三輪車をつぶしてしまいました。 母が工事関係者と交渉していくらかの弁... 続きをみる

  • 行商のおばさん

     年代はさかのぼりますが、表町のころです。千葉のおばさんが時々来ました。行商のおばさんが千葉から来るのでそう呼んでいました。大きめの籠を担いで野菜を売りにくるおばさんです。 歩いて3分ぐらいのところに八百屋さん(丹後町)はありましたが、にんじんとかじゃがいもとか大根とか玉ねぎなどは母も重かったので... 続きをみる

  • 久しぶりの高橋是清公園

     台町に住んでいたころです。赤坂とか永田町あたりに住んでいるクラスメイトがうちに遊びに来ました。7、8人は集まったと思います。屋内では思うように遊べないので、みんなで外に出かけることにしました。  高橋是清公園は台町の家から歩いて7分ぐらいかかります。薬研坂を下りて中腹の魚屋Gの路地を曲がったか、... 続きをみる

  • 放課後

     あのころはのんびりした時代でしたから、塾通いなんてものは受験のためではなく、放課後クラスの友だちに会えるという軽い動機で行ったと思います。学校のような緊張感は無くリラックスタイムでした。 赤坂新町のT君や一ツ木町のY君、同じく一ツ木町の甘味処立田野のIさん、ハッサンなどと赤坂六地蔵(浄土寺)の裏... 続きをみる

  • 加山雄三

     小学校の放課後、中華料理店の娘Uさんと一緒に帰ったことがありました。Uさんは以前平河町あたりに住んでいたと思いますが、杉並に引っ越したというのです。のちに東急ホテルが建つところ、ちょうどそこは関東ローム層がはっきり見えるところで地層の研究者の注目する場所でしたが、その側道の坂を下りていきました。... 続きをみる

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  • 初恋

     小学3年のころ初恋がありました。1年生から4年生までクラス替えが無かったので、一目ぼれではないです。年に何回か遠足に行くわけですが、そのたびに集合写真を見ると年々可愛くなっていく人がいました。毎日同じ教室にいるのに、写真を通して憧れるという、古風なのか現代の二次元的感覚なのかよくわからない恋心で... 続きをみる

  • テアトルボウリング

     円通寺の坂の中腹にテアトルボウリングがありました。小学6年ごろテアトルボウリングに100円玉2個ぐらいをズボンのポケットに入れて遊びに行きました。 目当てはボウリングではなく、右手にあるレーシングカーとピンボールでした。レーシングカーはAコース、Bコース、Cコースと選べて値段も違っていたかもしれ... 続きをみる

  • 赤坂台町の2階を貸す 続

     C号室には大人の雰囲気の30歳ぐらいの二号さん~Yさんも住みました。Yさんは南青山の有名なアパート(マンション型)に引っ越しましたが、祖母と母と3人で遊びに行ったことがあります。  のちに同じ苗字のYという十代のアイドル系の容姿をした双子の姉妹もC号室に住みました。この双子は巧みに入れ替わり中年... 続きをみる

  • 赤坂台町の2階を貸す

     赤坂台町の2階はアパートとして貸していました。A号室~D号室には二号さんとか銀座のホステスさんとかが借りていました。  昭和38年当時にもかかわらず彼女らにとって朝シャンは珍しくなかったのでしょう。地域性もあってシャワーは必須だったと思われます。実態は把握できませんが、昭和30年代に港区のアパー... 続きをみる

  • アベベ

     昭和39年東京オリンピックのころです。小学校の体育の授業で校庭のトラックを何周もするミニマラソン的なことが二週続いたことがありました。 一週めは偶然体調が悪く教室にひとりぼっちで待機していました。戻ってきた同級生たちは各々にヘタバった様子でした。トラックを何周も走りオリンピックの影響をモロに受け... 続きをみる

  • 人生ゲーム

     T君の家は赤坂新町にありました。TBSの向かいの路地を入ったところです。広い通りには「珍楽」があって、のちに「キイハンター」なる店もできましたね。今やカフェのチェーン店が並んでいます。もっと昔、TBSのところは大きな病院があったようです。 T君の家に遊びに行くとだいたい人生ゲームをやりました。た... 続きをみる

  • ビートルズ

     昭和39年か40年ごろ、つまり1964年か65年ごろ、永田町のハッサンのうちにみんなで集まった時です。ハッサンはビートルズのLPレコードのアルバムを見せてくれました。LPと言っても少し小さめだったかもしれません。 レコードは5枚以上あって、ジャケット写真のどれもビートルズの髪型がマッシュルームカ... 続きをみる

  • 瞼の母?

     父が生まれて間もないころ、祖父は家に帰らず生活費も入れませんでした。家賃が払えず、それゆえ東京のあちこちに転々と移り住んだようです。父は淀橋町大字角筈(昭和7年から淀橋區角筈)、現在の新宿駅西口の明治安田生命のあたりで生まれました。のちに牛込區余丁町、四谷區若葉町、左門町あたりも住んだようです。... 続きをみる

  • 歌舞伎座

     京橋區木挽町、現在「東銀座」駅近くの歌舞伎座は大正10年に漏電による火災で焼失しました。大正12年に再建し始めましたが、同年9月に関東大震災で中断しました。建設再開の折、二十代前半の祖父は設計で参画しました。祖父は蔵前高校の出身でひとが一週間かかる設計を一日でこなしてしまったと聞いています。 歌... 続きをみる

  • 忠犬ハチ公~二二六事件

     祖母は昭和8年ごろ渋谷の大和田町、現在の宇田川町に住んでいました。黒板塀に見越しの松の粋な家だったそうです。場所は確かではありませんが、後年大衆食堂(店名は度忘れ)があった付近だということです。現在の「109」から道玄坂を少し上がって左の路地に入ったところのようです。 東横デパートがちょうど開店... 続きをみる

  • 日本橋室町→赤坂

     前に祖母は日本橋室町から戦災被害者で赤坂に引っ越してきた、みたいな書き方をしたかもしれませんが、東京大空襲ではないようです。というのも空襲はその前からあったといろいろな人から聞きます。 祖母は日本橋に住んでいる時にすでに被災者居住権を持っていたようです。 時代はさかのぼりますが、昭和13年に祖母... 続きをみる

  • 源氏物語

     祖母は二十歳のころ、『源氏物語』を読んだそうです。父が生まれた大正11年ごろとすれば、淀橋町大字角筈(昭和7年以降は淀橋區角筈二丁目)か余丁町、百人町もしくは四谷區の若葉町か左門町に住んでいたころです。 そのころの『源氏物語』と言えば与謝野晶子訳です。一度めの大正3年までに刊行されたものでしょう... 続きをみる

  • テケツの女~上野の映画館

     祖母は赤坂に住む前に東京のあちこちに住みました。  大正の後半は芝區の西久保巴町の親戚の家に身を寄せました。ここは虎の門と神谷町の中間あたりです。  その前後に愛宕の青松寺に一週間泊めてもらったこともありました。  それと淀橋町大字角筈(昭和7年以降は淀橋區角筈)ここは新宿駅の東口西口一帯ですが... 続きをみる

  • ほねつぎ

     台町の家で多かったと思いますが、屋内で遊んでいると妹の腕のスジが違えていました。3歳ぐらいの妹の腕を伸ばしたりしているとスジが違えるのです。そうすると曲がらなくなったりしました。9時とかちょっと夜も遅くなって赤坂の名倉堂(ほねつぎの別名ですね)に電話して行ったり、たまには来てもらえる時もあったと... 続きをみる

  • 赤坂の蟹

     表町の家の裏木戸の近くで蟹を発見したことがあります。甲羅の中央が真っ赤で周りは緑がかっていました。海でしか蟹を見たことがないので、というか蟹を見たのは初めてか二度めぐらいでした。  母親に報告すると、山の蟹だよきっと、と言っていました。サワガニのように色が薄くありません。色が鮮やかなのはとても印... 続きをみる

  • コロンビアの坂

     かつてコロンビア通りと呼ばれていた通り、コロンビアが移転した現在は何と呼ばれているのでしょう?  タクシーに乗ってコロンビア通りを通ってください、と言ったら黙ってそこへ向かうか、もうコロンビアは無いですよ、とか言われるんでしょうか。  マイカーやタクシーの抜け道として使う人のほうが多いのではない... 続きをみる

  • スタート35

     昭和29年ごろ、母方の叔母は中学生でした。叔母は母方の祖母に連れられて赤坂のうちに遊びにくる時にカメラを持ってきていました。赤ん坊のぼくを祖母が抱っこして東宮御所の前で記念写真を撮りました。 その写真を見るとどうやらスタート35というカメラで撮ったようなのです。ボルタフィルムと言いましたか?13... 続きをみる

  • 「ぼくの伯父さん」

     VHSのビデオが売られはじめたのは80年代後半だったと思うのです。映画「ぼくの伯父さん」をそのころ見て映画は初めて見たのですが、バックでかかっている音楽は聴き覚えがありました。懐かしくてサントラのCDも買いました。 Jacques Tati Soundtrack Music from 'Mon ... 続きをみる

  • 赤坂「からす亭」を真似て

     4歳ぐらいの時です。表町のうちに親戚の人が遊びに来ました。その時に銀紙に包んだ料理を出しました。ぼくは思わず「こんなの初めて!」と言いました。  二階に住んでいた地下鉄総裁の二号さんのYさんが赤坂「からす亭」から出前をよく頼んでいて、うちにも分けるつもりで多めに注文していたと思うのですが、銀紙に... 続きをみる

  • 料亭回り

     祖母は信用金庫に勤めていました。新規契約と集金で赤坂じゅうを回って歩いていたと聞いています。商店、料理屋、料亭を中心に巡っていたようです。 料亭Cの大女将Mさんは稀代の政治家Tと引き揚げてきた、と祖母から聞きました。ただこれは確かな話かどうか疑問が残ります。 Tの妾Sの娘さんが書いた本によると、... 続きをみる

  • 東宮御所

     表町の家と赤坂支所の間は停留所がポツンとあるだけで、タカラ椅子会館と住友3Mのビルがボンボンと建っていました。今でこそ薬研坂の上りきったところに横断歩道と信号があったりしますが、昔は何も無かったです。 青山通りにも歩道橋は無かったです。言ってみれば自由に渡れました。縁日で買ってきたひよこが死んで... 続きをみる