2015年7月のブログ記事
-
-
-
-
-
下北沢のジャズ喫茶「ノイズ」で昭和50年ごろ聴いた中にリターン・トゥ・フォーエバーのアルバム「第七銀河の賛歌」「ノーミステリー」「銀河の輝映」がありました。 いわゆる「かもめ」のジャケットや「浪漫の騎士」のRTFももちろんかかりましたが、「かもめ」は代名詞的に語られすぎていますので、ここでは割... 続きをみる
-
-
-
-
-
-
-
-
ちょっと遡って昭和51年ごろです。下北沢に39円スナックというのがありました。確かふつうのスナックだったのが、店が変わってワンドリンクお通し付きで39円になったと思います。 スナックといっても女の子もいなくてバイトかなんかの店番みたいのがいて、ぺったんこのソファに薄暗い店内で大人しく飲む客が多... 続きをみる
-
-
-
78年(昭和53年)ウェザーリポートの来日公演がありました。ジャコが参加していることでレコードが異例のヒットを飛ばして以来の初の来日になったと思います。コンサートは二度ばかり行きました。 「Elegant People」の時はジャコがベースを弾きながら横すべりに歩く、それがまるで蟹が歩いている... 続きをみる
-
同じころ、ぼくは小石川図書館でデレク・ベイリーを借りて家で聴いていました。スティーヴ・レイシーとベイリーのデュオアルバムを聴きました。 Company 4 (1976) ベイリーのギターはエレキのフルアコかなにかでレイシーはソプラノサックスです。ヘビとマングースのように絡み合って殺気立っている... 続きをみる
-
-
「ヌー・ハイ」ケニー・ホイーラー Gnu High Kenny Wheeler
昭和52年以降小石川図書館でレコードを借りることが多くなりました。 ケニー・ホイーラーのアルバム「ヌーハイ」('76)もその中の一枚です。ECMのものを聴く機会が増えていた時期ですから、気になるものはどんどん借りていました。 Kenny Wheeler - Heyoke アルバム「ヌーハイ」... 続きをみる
-
-
-
-
-
-
思い出しました。昭和48年のクリスマス(検索したら出てきました)に泉谷しげる、西岡たかし、キャラメル・ママのジョイントコンサートが新宿厚生年金で行われていましたね。これも実際出かけていきました。当時の茶色いポスターがまだ家のどこかにあります。 西岡たかしの記憶は全く抜け落ちていて、さっき検索す... 続きをみる
-
昭和49年か50年に小坂忠のコンサートに出かけました。千駄ヶ谷の日本青年館で夕方から並んで入ったのを覚えています。 外で待っている間、館内でリハーサルをやっている音が聴こえました。声の主は吉田美奈子です。ピアノの弾き語りです。 曲は「ベルベットイースター」。荒井由実の歌を吉田美奈子が歌ってい... 続きをみる
-
-
昭和50年前後だと思います。東京近郊の大学の学園祭に出かけました。いつもの友人Kとです。目当てはライブコンサートです。 上田正樹とサウス・トゥ・サウス、金子まりとバックスバニー、あともう一つバンドが出ていたと思いますが、思い出せません。 あともう一つはチャーではないと思います。チャーとか金子... 続きをみる
-
-
中2から中3、つまり昭和43年~44年はラジオの「英語会話」を聴いていました。誰に薦められたわけでもなく、何気なく聴いた松本亨さんの英語の発音に魅せられて聴くようになったのです。松本先生の英語はネイティブな感じで日本人離れしていました。よく英語の講師でも発音がまるっきり日本人みたいな人がいますね... 続きをみる
-
-
70年代に街中で何気なく喫茶店に入ってちょっと内装がゆったりした店なら頻繁に流れていたのはイージーリスニングです。 レーモン・ルフェーブル、ポール・モーリア、パーシー・フェイス・オーケストラ、マントバーニなどです。 あとバーキン、ゲンスブールの「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」'69も時々流... 続きをみる
-
-
今ホットケーキがブームなんですね。若いパンケーキ世代からも支持されているそうです。 我々50代60代のホットケーキは子どものころのごちそうだったと思います。50代前半の人はホットケーキ用の小麦粉を買って自分んちで作って食べる人も多かったと思います。ただ60前後の人はデパートの食堂で食べた印象が... 続きをみる
-
-
-
国立競技場はすでに解体されてしまったんですね。昭和39年のオリンピックのときは学校から歩いて行きました。あそこの住所は新宿区霞岳町っていうんです。案外知られてないんじゃないでしょうか。青山通りから行けるし「外苑前」駅からも歩けます。だから渋谷区と思われがちですが。最近は「国立競技場前」という駅も... 続きをみる
-
昭和45年の春ごろから冬ぐらいまで仮の住まいで暮らしました。環七沿いのK写真館の建物そのまま借りたのです。写真館ですから洋館じみた外観は昭和初期の小さめのビルヂングです。だいぶ年季が入っていてネズミが出るほどだったのですが、祖母や両親に言われるままぼくも妹も仕方なく住んだのです。 家庭の事情で... 続きをみる
-
昭和50年ごろでしょうか、先輩のKSさんの下宿先は東京女子大の近くでした。 KSさんのアパートに遊びに行くとレコードを聴いたりギターを弾いたり哲学書を読んだりしました。 先輩は昭和27年の早生まれで、サークルのOとかIと学年で言えば同じです。 先輩のお気に入りのレコードはペンタングルなどの... 続きをみる
-
昭和49年~50年ぐらいの時期だと思います。友人Kと三鷹市の女性Iさんのアパートを訪問してジャズ・ヴォーカルのレコードを聴かせてもらいました。 IさんはKと同じ歳でぼくより1歳上です。しかも上にお姉さんがいるせいかやはり聴くものが進んでいました。Kはもう知っているふうな応対をしていました。 ... 続きをみる
-
-
下北沢の「シェルブール」とか吉祥寺の「シモン」ではキース・ジャレットの「ソロ・コンサート」がよく掛かっていたように思います。70年代前半から半ばにかけてですか。 だいたい友人Kとジャズ喫茶めぐりをしました。その彼の神奈川のご自宅に遊びに行ったらリビングが30畳ぐらいありました。昭和40年代後半... 続きをみる
-
母方の伯父(伯母の夫)は大正9年生まれですが、戦時中は大陸にいて戦後もシベリア抑留に遭いました。ソ連の湖に20日間浸かったまま戦友は次々と病死していったと聞きます。抑留されてからは、片言のロシア語で軍看護婦と懇意になり、物資を優遇してもらったそうです。伯父は生前ぼくと母と本郷のそば屋でロシア語の... 続きをみる
-
-
父は大正11年生まれです。幼少期に祖父母が離婚したので、親戚や他人に預けられました。祖母が引き取ったのは昭和8年ごろです。いわゆるシングルマザーなので学校の成績はよくても進学はままなりません。それが却って良かったのか、兵役に取られても内地の千葉で高射砲の計算班でした。 サイン、コサイン、タンジ... 続きをみる
-
-