昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

2014年10月のブログ記事

  • 自転車通学

     K中学に通っていたころです。昭和42年以降だと思います。台町から歩いて通うのがかったるくて自転車で途中まで行きました。遅刻しそうな朝に自転車に乗ったのがきっかけです。  途中というのは小学校からのクラスメイト、一ツ木のYクンちでした。一ツ木通りに金物店がありました。その店先に自転車を無断で置いて... 続きをみる

  • 料亭C

     Cという有名な料亭のお座敷を垣間見たことがあります。赤坂でも料亭を代表する存在だったと聞いています。赤坂3丁目にありました。田町通り(エスプラナード通り)からも行けましたがみすじ通りに面していました。ですが、住所的に赤坂田町なのか赤坂新町なのかよく分かりません。 垣間見たというのはお座敷にお客と... 続きをみる

  • フラフープ

     フラフープはなぜか女の子のほうが得意ですね。 ♬ フラフープのコンテスト 1958  男の子はどうもうまくいかない。(そうでもないかw)腰を動かすのはいいとしても堪え性が無いんでしょう。このぐらいでいいかなと思うとフラフープの輪っかが落ちてしまいます。女の子みたいに粘りよく回していられません。 ... 続きをみる

  • ダッコちゃん人形

     ダッコちゃん人形が流行ったことがありました。夏休みに母の実家に遊びに行くのにダッコちゃん人形を持っていったことがあります。  黒人の子どもの人形ですが、空気を吹き込んでふくらます、わりとシンプルなもので、両腕が丸くなっていて子どもや大人の腕にからませて歩けます。目の部分は虹色で角度によってぐるぐ... 続きをみる

  • 食パンの耳

     表町か台町かはっきりしませんが、食パンの耳をフライパンで炒めて砂糖をまぶしておやつにする時期がありました。焦げ目がいい具合につくと香ばしくてウマいのです。 あのころ砂糖に対してマイナスイメージはあまりありませんでした。甘いものが易々と買えるわけでもなく、駄菓子屋で売ってるものは着色料や添加物など... 続きをみる

  • 芸能一家

     父の従姉弟は一言でいえば芸能一家でした。父は文学青年でしたが、全然タイプの違う従姉弟が何人もいました。ぼくからは遠い伯母、叔父、叔母に当たります。  長女A子さんは戦後キャバレー回りの歌手でした。子どものころは勉強ができて尋常小学校のころ、戦前ですが、作文が新聞に載ったそうです。どこで知り合った... 続きをみる

  • おたまじゃくしはカエルの子

     台町の家のガレージでおたまじゃくしを飼いました。洗面器に15匹ぐらい入れてガレージに置いておいたのです。夜は確か金網をのっけて重しをのっけていただけだと思います。よく猫に襲われなかったなと思います。 何日か経つとおたまじゃくしの後ろのほうから足が出てきました。足を屈伸させて泳いでいます。数日後前... 続きをみる

  • 新洗剤開発

     表町のうちで新発明に現をぬかしていました。裏木戸から入った家の通路には洗濯機と流しがありました。そこで2、3時間新型の洗剤開発に熱中しました。 夕方になって暗くなるまで妙に打ち込んだもようです。新クロペットと名付けて新洗剤を開発したのです。 何のことはない、いくつか洗剤を混ぜて自分で開発した気分... 続きをみる

  • 表町周辺の有名人

     表町の周辺は歩いて1分以内に高橋是清公園がありました。近所には銀幕女優の細川ちか子も住んでいたようです。 それと間違えやすいのは細川様の別邸があったそうで、細川様というと目白あたりを連想しますが、本宅ではなく赤坂のほうは別邸です。表町のお邸には久邇宮さまも遊びに来ていたそうです。これは母方の祖母... 続きをみる

  • 8マンのシール

     台町の家を売る際、惜しいと思ったのは、8マンのシールでした。自分の部屋のすりガラスにベタベタと貼っていた8マンのシールは剥がすことは無理でした。剥がしたらシワシワになって値打ちが無くなってしまいます。丸美屋のふりかけをこつこつと買って集めたシールです。  これは4年ぐらい前にリバイバルしていまし... 続きをみる

  • 父の浮気でモメたこと

     台町のころ、父がTという女性と浮気したことが発覚しました。Tは表町の2階に間借りしていた洋裁学校の講師です。実家は三田の札の辻です。Tは昭和5年生まれの午年でした。これは以前も書きました。  台町の居間で夕飯を食べている時です。祖母が父のYシャツを洋服ダンスから取り出しビリビリに破りました。いや... 続きをみる

  • 交通事故目撃

     N小学校の1年生のころです。同じクラスのOクンが横断歩道で自動車に撥ねられました。Oクンは銀座の商店の息子さんです。 事故の現場をぼくは見ていました。横断歩道は学校の目の前にありました。学校の敷地内に三角のスペースがあり小便小僧がありました。その目の前に横断歩道があり、Oクンとかぼくとか何人かで... 続きをみる

  • 「ダイヤル110番」

    ダイヤル110番  昭和32年から昭和39年まで「ダイヤル110番」というドラマが放映されていました。冒頭「こちら110番!」が印象的でした。  表町の家で、3~4歳のぼくは受話器を取って試しに「110」番を回してみました。  予想どおり、もっともぼく本人にとっては意外でしたが「こちら110番、ど... 続きをみる

  • 「女は夜化粧する」

     昭和36年の「女は夜化粧する」という映画があります。  山本富士子は元新劇女優でギター芸者として赤坂芸者の世界に身を投じます。森雅之は大手建設会社の重役ですが、赤坂のナイトクラブ「ゴールデン・ダイス」のママにギター芸者の山本を起用します。  家賃は200万円とセリフにあります。年間100着の着物... 続きをみる

  • 「億万長者」

     昭和29年の「億万長者」という映画があります。  赤坂の芸者役が山田五十鈴、永田町の議事堂が見える空き地で訓練する警察予備隊(自衛隊)、それを見ている近所のバラックに住む子どもたち、その子どもたちの「演劇かぶれのおにいちゃん(岡田英次)はちょっと共産党だね」というセリフがあります。ちなみに永田町... 続きをみる

  • 赤坂見附の立体交差

     赤坂見附の立体交差のところは昭和30年代までは三角形の植え込みみたいになっていたと思います。都電も走っていました。都電の写真集とか見るとだいたいこのあたりは撮影スポットになっているようです。  昭和27年の映画「カルメン純情す」にはオープンカーでこの交差点を走り渡る場面があります。主演の高峰秀子... 続きをみる

  • 尿意との戦い

     台町のころです。何かの拍子でクラスの違う女子と一緒に歩いて帰るハメになったのです。可愛い子でした。のちに中学の数学の授業を受けるS先生のお嬢さんでした。台町に住んでいると言うので二人並んで帰ったのです。 道中無言な感じだったと思います。小学生でクラスが違うし初対面です。それにぼくはうすうす尿意を... 続きをみる

  • 赤坂六地蔵尊の思い出

     一ツ木通りの真ん中へんに六地蔵尊があります。奥は浄土寺になっていて付設の幼稚園がありました。妹はここの幼稚園に通っていました。「ののさまにあげましょきれいなお水、ののさまにあげましょきれいなお花」という歌があったのを憶えています。  ここの境内で三角ベースをやったり缶けりをやったりしました。三角... 続きをみる

  • 七五三

     昭和32年の11月は七五三でぼくは3歳でしたので、親戚のHさんのおうちに遊びに行きました。  Hさんのおうちは本郷にありました。長男Kちゃんと次男Sちゃんは従兄に当たります。Kちゃんはちょうど7歳でSちゃんは4歳でした。  彼らのお父さん、つまり伯父ですが、カメラの趣味があってこの時も写りの良い... 続きをみる

  • 実写版ヒーローたち

     「少年ジェット」の「ウーヤーター」は真似をしたことがあります。雷や嵐が巻き起こったらどうしようと思いながらやっていました。迷探偵の屯田もん太役の人は何か円満な顔をしていて記憶に残っていました。大映の役者さんなんですね。  「まぼろし探偵」には吉永小百合が出ていましたが当時は全く知りませんでした。... 続きをみる

  • ナショナル・キッド

     ナショナル・キッドに出てくる少年たちはほとんど団塊の世代だと思います。最年少の子でもぼくより1歳上のように記憶しています。 ナショナルキッドシーズン別オープニング集  当時はチャコ姉ちゃんが太地喜和子だなんてもちろん知りません。志村妙子の名前も記憶に無かったです。  それよりも悪役の人たちがイン... 続きをみる

  • 少年マガジン

     少年マガジンは発売日より数日遅れで一ツ木通りの古本屋で買っていました。40円が30円に値下がりするだけで、自分では倹約しているつもりでした。 ちばてつやの「ちかいの魔球」とか「紫電改のタカ」、桑田次郎の「8マン」が楽しみでした。「ちかいの魔球」は消える魔球の原理を説明するためのエピソードとして、... 続きをみる

  • 昭和な商店街

     一ツ木通りのお肉屋Iさんと豆腐店Iさんあたりから赤坂見附方向に降りると花屋さんがありました。  ここは有名歌手Sの名義だったと思います。弟さんが経営していたとどこかで見ました。  数年前に売却してSは長者番付の上位に浮上しました。今はビルが建って1階はカフェになっていますね。  その並びに有職寿... 続きをみる

  • お産婆さん

     昭和35年の夏に妹が生まれました。表町の家です。家というのは自宅出産だからです。お産婆さんが来てくれました。統廃合する前の赤坂小学校の近所に住んでいた家政婦会々長Tさんが自らお産婆さんの役目をしてくれました。Tさんの娘さんは宝塚出身の女優Sさんです。妹が生まれたのは深夜の2時ですが、前の晩は父と... 続きをみる

  • セールスマン

     台町の家にはセールスマンがよく来ました。化粧品のメーカーKから若い女性のセールスウーマンが来て化粧水やクリームを売り込んだりされました。母は少しは買っていたと思います。 一度ムショ帰りの人が押し売りしている場面に遭遇したことがあります。玄関のところでゴムひもを出して粘っているのです。いや、ムショ... 続きをみる

  • 一ツ木通り界隈

     母と一ツ木通りの商店街で買物をした後、六地蔵尊入口の隣にあった果物屋でグリコのキャラメルを買ってもらうのが楽しみでした。といっても素通りすることのほうが多かったです。キャラメルのおまけが目的だったので、10円のではなく20円のが欲しかったからです。(値段が違ったらすみません) それは10円と20... 続きをみる

  • 流線形

     昭和40年に小学5年生になってクラス替えがありました。担任も女性のO先生に変わりました。ある体育の時間に50メートル走の計測がありました。O先生に握られたストップウォッチによる計測です。 同じグループのタケちゃん(Hくん)に負けるわけがないのに、勝てません。タケちゃんは8.7秒、ぼくは9.2秒。... 続きをみる

  • 自動車ショー

     父が日産系の新聞社に勤めていた関係で、晴海の自動車ショーに二度出かけたことがあります。  一度めは昭和32年だと思います。3歳のぼくだけぽつんとDATSUN(ダットサン)をバックに記念写真を撮りました。どこかに1957と印字されていました。おそらくDATSUN110型系だと思います。  3~5歳... 続きをみる

  • インスタントラーメン

     台町のころです。昭和38年ごろというと、世間ではもうインスタントラーメンが十分普及していたと思います。  うちではチキンラーメンを時々食べていました。ただ母が作る場合キャベツや何かをちょい足しして鍋で煮たりします。平成の初めのころチキンラーメンの懐古的なブームが来たときは逆に熱湯を注ぐだけ、とい... 続きをみる

  • ブロマイド

     祖母は元来歴史物語や時代小説好きでしたが、歌舞伎や文楽も大好きでした。演目のクライマックスシーンを30以上諳んじていました。金庫に勤めていましたから、毎年のようにチケットを用意してお得意さんを歌舞伎座や新橋演舞場に招待していました。祖母の趣味も満足させていたようです。 たくさんのお得意さんからも... 続きをみる

  • 赤坂見附駅

     地下鉄「丸ノ内線」は大正時代に計画が立てられて、だいぶ紆余曲折があったようです。検索してみましたら「赤坂見附」から乗れるようになったのは昭和34年のころだったようです。  「銀座線」はすでに「赤坂見附」駅が利用できていました。今度「丸ノ内線」ができるけれど、「銀座線」より音が静からしいよという触... 続きをみる