2014年8月のブログ記事
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赤坂台町の家から三分坂方面に歩いていき、三分坂を下りずに真っ直ぐ歩いて都営住宅を横目に右に折れると公園がありました。現在はどうか判りません。 一ツ木公園という名前です。 この辺までギリギリ一ツ木町だったようです。いつごろか後年かもしれませんが、道の途中にソニーのM元会長宅もあったようです... 続きをみる
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赤坂台町は隣りが白洲次郎のビルがありました。 近所に聖パウロの学校もあったような気がします。 向かい側がテニスコートの時もありましたが、空き地の時もありました。 空き地の時に財布を見つけたことがあります。財布の中を見てみると、メモが入っていました。「残念でした。お金は入ってませんよ」と書い... 続きをみる
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たまたま、うち風呂が故障して青山一丁目交差点近くの銭湯まで母と歩いて行ったことがあります。現在で言うとHONDAのショールームの裏だったと思います。だいたい南青山二丁目あたりですね。当時は青山南町と言いました。参考までに、若尾文子主演の映画「青空娘」をご覧になってください。青山南町の地名も実写も... 続きをみる
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丹後町にY精肉店がありました。晩ごはん用に揚げてあるとんかつを買うのですが、妹が生まれるかどうかのころですから実質上家族4人で、薄いとんかつ(ハムかつとは違うもの)を2~3枚買います。 とんかつは3種類ありまして大、中、小の順に70円、50円、30円とありました。売れ行きの状況にもよったのでしょ... 続きをみる
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ぼくが自転車に乗れるようになったのは遅いほうです。兄もいないし、父は子どもと遊んでくれるような人ではありませんでした。 小学4年の時のある放課後、みんなで集まって日比谷高校のグラウンドに行きました。永田町に住んでいたTくんの20インチの自転車を借りて何となく自転車に乗る練習が始まりました。周りの... 続きをみる
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現在の一ツ木通りは歩道と車道が分かれていますが、昭和30年代は普通の通りでした。 一と六の日は縁日で夜店がずらっと並びました。綿あめ、金魚すくい、ヨーヨー、京人形、引き出し(硬貨を入れると消える)、バナナの叩き売り、しんこ細工などなど、珍しいと言えるものはそんなに無く、食べ物の夜店は今ほど多く... 続きをみる
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大谷邸は昭和35年に二度行きました。数年後にはニューオータニが建つと決まっていたのかもしれません。 一度めは広い芝生にたんぽぽがいっぱいで、相撲をとったり、花を摘んだりしました。 二度めは12月だったので、松の木が藁で覆われていました。池の周りを歩いたり山登りをしたり、庭に岩のオブジェがあって跨... 続きをみる
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赤坂ニューラテンクォーターはホテルニュージャパンの地階にあったということです。そうなると住所は永田町になります。 昭和38年にニューラテンクォーターで刺された力道山の緊急手術を行ったのはS病院の医師だったそうですが、S病院も永田町です。てっきり赤坂と思っていましたがそうではなかった。S病院は産... 続きをみる
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台町に住んでいたころです。父が表町の2階に住んでいた洋装学校の女講師Tと浮気している、と母は気づきました。ある夜、母はバスを乗り継ぎ飯倉で降りました。 飯倉から虎の門までサンダル履きのまま、走りました。虎の門に差し掛かるころ、とある喫茶店に目をつけました。外に父の傘が置いてあったので、店内を見る... 続きをみる
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赤坂表町の家の隣にマンションが建てられました。元はEさんと言ったか記憶があいまいですが、邸宅でした。 マンションの建設用地として空き地になった時、鉄条網に足を引っ掛けてケガをしたことがあります。きっと空き地内で遊んでいたんだと思います。 マンションは草月会館とも隣接していて高橋公園と草月の間... 続きをみる
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現在では雪が降るとドライバー泣かせの薬研坂ですが、一旦下ってまた上ると高台の台町付近になります。コロンビアができたのでコロンビア通りと呼ばれるようになりました。 最近コロンビアが移転したと聞きました。何通りと呼べばいいんでしょう? 赤坂支所 赤坂支所 コロンビア坂 今もあるか判りま... 続きをみる
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テレビでザ・ヒット・パレードの野外生中継がありました。 昭和37年ごろでしょうか。前にガーデンと書きましたが正式には何と言うのか知りません。草月の裏側に広い野外スペースがありました。そこで番組の生中継があったのです。 どうして生と断言できるかというと、テレビで見ているうちに現物で見たくなり、... 続きをみる
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あとお妾さんでも二号さんでもない、洋装学校の講師が住んでいました。Tという女です。昭和5年の生まれでした。これが曲者で、後々父親の浮気相手になります。 うちは昭和38年ごろ表町から台町に引っ越しますが、台町のころにTと父親は虎の門のバス停で出会います。そのころTがどこに住んでいたか判りませんが、... 続きをみる
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その他住んでいた人は、やはりお妾さんのYさん。母よりちょっと年上でぼくがお腹の中にいる時から2階に住んでいました。母と仲良しで炬燵に二人であたったスナップ写真があります。本名はSさんですが、ダンナの苗字Yで呼んでいました。ぼくは日本語の発音ができなくてタダちゃんと呼んでいました。タダちゃんとはお... 続きをみる
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ぼくが3才ぐらいのころ父が自然気胸で倒れたことがありました。 バスに乗って一番前の運転手さんのすぐ後ろに立っていたそうなんですが、バスの前を急にリアカーが通ったそうです。バスが急ブレーキをかけたので、父はしこたま胸を打ったんです。 救急車で慶応病院に運ばれ今夜が山まで言われたのです。抗生物質... 続きをみる
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