昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

2015年5月のブログ記事

  • 新宿 淀橋 角筈

     20年ぐらい前でしょうか、友だちと紀伊国屋書店新宿店で本を選んでいた時、店内アナウンスで「角筈の〇〇さん~~~」と流れました。  角筈は「つのはず」と読みます。父は角筈で生まれました。新宿駅西口真向いにある明治安田生命の付近です。大正時代は文化住宅(バラック)が並んでいました。このあたり西新宿一... 続きをみる

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  • トニー谷

     そろばんを縦に構えて、器用な手さばきでチャカチャカ、リズムを取りながら「あなたのお名前なんてーの」の番組がありました、トニー谷司会の。あの人の息子が誘拐されたのが確か昭和29年だったと思います。当時は覚えてないというか知りませんでした。    有名なセリフ「レディース アンド ジェントルメン ア... 続きをみる

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  • 映画館の看板描き

      映画館の看板描きをしていた小父さんは、浅草の映画館は顔パスで入っていたそうです。戦後の映画はほとんど見たと言っていました。浅草出身の小父さんが特攻隊の生き残りという話は以前書きました。    府立三中から上野の美術学校へ進んで絵描きになるつもりがまさかの特攻隊です。    看板描きをする前は横... 続きをみる

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  • お笑いドラマ番組のスターたち

     佐々十郎は「スチャラカ社員」には出ていないようですね。「やりくりアパート」と混同していました。  「番頭はんと丁稚どん」には茶川一郎が出ていました。佐々十郎も茶川一郎も関西出身ではなく、東京生まれなんですね。  「番頭はんと丁稚どん」の提供に「七ふく」がありましたが、提供のナレーションは若い女性... 続きをみる

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  • 思い出の関西系お笑いドラマ

      東京生まれの東京育ちですが、子どものころのテレビ番組というとけっこう関西系のものが多かったように思えます。  正確なタイトルかどうか判りませんが「番頭はんと丁稚どん」なんかは毎回舞台の芝居でした。佐々十郎と大村崑がコンビで出てたような、藤山寛美が出ていたのは違ってましたか。芦屋雁ノ助や小雁など... 続きをみる

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  • しつけ

      幼稚園のころのスナップ写真は味噌っ歯で笑っています。寝間着姿で筆箱を手に持っています。何んとなく具合が悪いときはしょっちゅう幼稚園を休んでいました。うちの中で絵を描いたりして過ごしたと思います。  母のほうから「休む?」と言い出します。味噌っ歯であるのもしつけがちゃんとしていない証拠ですし、あ... 続きをみる

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  • ひよこのお菓子

     キャラ弁が可愛すぎて食べられない子どもがいるそうです。  ぼくが子どものころはひよこのお菓子も3年に1度ぐらい食べる機会がありました。ちゃんと食べられることが多かったのですが、ある時ひよこがかわいそうで食べられなくなりました。  ひよこの頭のところだけ残して食べるのをやめたことがあります。それ以... 続きをみる

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  • 明治生まれの戸籍

     祖母の姉Tさんは明治28年の4月生まれだとずっと自ら語っていました。祖母より7歳上でなるほどそうなんだと思っていました。そのお婆さんが亡くなって数年後祖母も亡くなり、相続のことで戸籍を調べる機会がありました。  何気なくTさんの生年月日欄を見ましたら明治26年10月になっていました。しかも備考に... 続きをみる

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  • ステレオ ②

      一体型ステレオは昭和45年以降は時代遅れの感覚がありました。  それでも父と母と妹と四人で夜ラヴェルのボレロをソニーのシングル盤で聴いたのはよく覚えています。うろ覚えですが、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィアオーケストラだったと思います。33回転ですがシングル盤なので途中でA面からB面... 続きをみる

  • 「ブーフーウー」

    ブーフーウー 1/3   「ブーフーウー」を急に思い出しました。テレビの三匹の子ぶたですね。  ブーは大山のぶ代、フーは三輪さんという声優、ウーが黒柳徹子なんですね。大山のぶ代さんが認知症とかで、砂川啓介さん、この方はぼくらの世代だと体操のお兄さんです。結婚当初から姉さん女房ということはみんな知っ... 続きをみる

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  • スカートめくり

     小学3、4年生のころは初恋のひとKさんを主にスカートめくりをしていましたが、5、6年生のころは転校生のOさんを主に時々思い出したようにKさんもスカートめくりをしていました。   5、6年生のころは高学年ですから校舎の三階が教室だったと思います。なので休み時間は屋上へ向かいます。階段を上るので息が... 続きをみる

  • ステレオ ①

     うちにステレオが来たのは昭和39年か40年ごろだと思います。  それまで叔母たちが下宿していた新井薬師でステレオは見たことがあり、わりと正方形かむしろ縦長(正面から見て)のでした。それはレコードプレーヤーに申し訳程度のスピーカーが付いたもので、ラジオが内蔵されていたかどうか思い出せません。  サ... 続きをみる

  • プラッシー カツレツ

     プラッシーはお米屋さんが運んできます。これはほとんど知られていることです。子どもにとってジュースは夢のような飲み物です。  でも一度バヤリースが届いたときがありました。親戚のひとが来るとかいう数日前です。プラッシーよりだいぶハイカラだと思いました。  渡辺のジュースの素も一袋ずつオレンジを買って... 続きをみる

  • 溜池の本屋

     溜池に本屋のYさんがありました。Yさんの息子は幼稚園、小学校、中学と同期です。  祖母から聞いた話では、店閉まいした後夜更けに店主が出かけていって料理屋さんとか料亭の裏口から入って高齢の常連客に絵を売っていたそうです。  江戸の浮世絵風のものなのか、幕末明治初期風のものなのかでしょう。それらのも... 続きをみる

  • 玉子焼き

     母がつくる玉子焼きは甘かったです。甘いのとしょっぱいのどっちにする?と訊かれてだいたい甘いほうを選んでいました。玉子焼きは甘くなければもったいないと思っていました。それでなくても甘いものに飢えていましたから。  巨人大鵬玉子焼きの時代でしたから。王選手のサイン入りポスターは少年マガジンに応募する... 続きをみる

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  • 円通寺坂下の塾

     円通寺坂下の通りにMさんという塾がありました。塾と言っても今時の進学塾ではなくて手習いのようなものでした。教科書のおさらいにも届かないレベルのものです。漢字の書き取りテストが100問出て、たいがいの子は悪くて96点取れます。  放課後の集会所みたいなところです。  一ツ木通りの甘味処Tの娘Iさん... 続きをみる

  • 他人の顔 etc

     前に旧草月会館のイメージは黛敏郎が似合うみたいなことを書きました。意外と武満徹じゃないとか。ですけど、昭和30年代~昭和40年代前半のイメージでいえば武満かなぁと思うのです。  映画「女が階段を上る時」や「卍」は黛敏郎が音楽担当で確かにそのイメージです。ですけど、「他人の顔」なんて武満徹です、完... 続きをみる