昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

2015年10月のブログ記事

  • 東京タワーのトンコ

     昭和30年代後半から40年ごろ、東京タワーのふもとに「とん子」という店があったらしいです。あったらしいというのは変ですが、父が通っていた飲み屋さんです。晩ご飯の後、父の帰りが遅いと母がそわそわしながら、 「とん子だね、きっと。ちょっと行ってくる」 と言って出かけます。母はバスで「赤坂支所前」から... 続きをみる

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  • 70年代ジャズ・コンサート(音源あり)

     昭和53(1978)年にキース・ジャレットのコンサートに出かけました。日本武道館だったと思います。音が遠くて全然わかりませんでした。キース自身も豆粒みたいにしか見えませんでした。  たぶんこの一連のコンサートは後の「サンベアコンサート」になったと思うのですが、間違っていたらゴメンなさい。(付記:... 続きをみる

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  • 室内楽

     昭和59年にフォーレの室内楽に出会ってから、フランス系の室内楽を追いかけてみました。  小石川図書館でフランクとかサン・サーンス、ショーソン、ドビュッシー、デュパルク、ピエルネ、ルクー、ラヴェルなど借りて聴きました。  新宿のコタニに何度も通ってジャケットの写真に魅せられたのはルクーのレコードで... 続きをみる

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  • 絵の思い出

     古いアルバムを見ると、幼稚園をズル休みして寝間着姿で絵を描いているスナップ写真があります。絵を描くのは好きでした。  幼稚園のアルバムにも象の絵とか遠足とか日常を描いた絵などが見られます。象の絵はテレビニュースで放送されてインドにも渡りました。  遠足で小高い丘に登ったときの絵は山の頂上からおし... 続きをみる

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  • 日比谷公園 ③

     開園当日、日比谷公園はたいへんな人気でした。老若男女が我先にと公園に入り、園内は人々で溢れるほどでした。  初めて触れる西洋の文化を満喫しました。花を盗む人も池に身を投げる人もいませんでした。  日比谷公園の中にある首かけイチョウは昔日比谷通りにありました。  道路を拡張するために、このイチョウ... 続きをみる

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  • 日比谷公園 ②

     しかし、当時の東京市の担当者から思わぬ横やりが入りました。  まず、門に扉がない、夜、花が盗まれる、江戸城のお濠を利用して作る池は身投げの名所になると困る、というようなことでした。本多は池の石垣の下に浅瀬を作り、直接水に飛び込めないようにすることでこの問題を乗り切りました。  門の扉のことは断固... 続きをみる

  • 日比谷公園 ①

     日比谷公園の成り立ちは次のようになります。(テレビ番組から抜粋)  明治時代、日比谷に陸軍操練所はふさわしくないので西洋式の公園とすることになりました。  日比谷公園(陸軍操練所跡)  いくつかの設計は不採用になりました。東京駅の設計者辰野金吾の設計も不採用になりました。  そこへ留学先のドイツ... 続きをみる

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  • 風呂

     昭和30年代前半、赤坂表町の二階に住んでいたYさんと親しくしていました。  Yさんは中小企業の社長さんのお妾さんでした。社長さんがYさんなのでお妾さんもYさんと呼んでいましたが、ぼくは小さかったのでYさんと言えずTちゃんと読んでいました。  Tちゃんの本名はSさんで福岡県出身とのこと。Tちゃんと... 続きをみる

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  • ジョルジュ・ローデンバッハ(ローデンバック)

     昭和59年ごろジョルジュ・ローデンバック(ローデンバッハ)の『死都ブリュージュ』窪田般彌訳を読みました。読んだのは岩波文庫でしたが、後年単行本(箱入り)を古書で買いました。  ローデンバッハの名で有名な詩「黄昏」は、  夕暮がたの簫(しめ)やかさ、燈火(あかり)無き室(ま)の簫やかさ。・・・  ... 続きをみる

  • 同潤会アパート

     祖母は戦時中、日本橋室町の「にんべん」の隣りに住んでいました。  祖母の従弟のH雄と従妹たちが転がり込んできて危うく乗っ取られそうになりました。苗字が同じだったためです。印鑑登録を祖母の名前も入ったハンコで作り直し、難を逃れました。祖母には被災者居住権があったのです。  その被災者居住権で引っ越... 続きをみる