昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

大正生まれの人々

 母方の伯母は大正10年に生まれて昭和29年に肺けっかくで亡くなりました。戦時中の空襲のときはみんな防空壕に逃げても、私はここにいると言って家の中にいました。そのとき防空壕が爆撃されて防空壕に逃げていた人たちが死んで伯母は助かったのです。
 戦時中、東京の会社に就職し英文タイピストをしていました。ただ地方訛りを咎められるのを非常に気にしていました。成績優秀で達筆な字を書いてハガキなどくれた伯母ですが、仕事で無理が祟ったのか肺けっかくになって13年間患い寝たきりでした。
 当時けっかくは死の病でした。高い経費のかかったストレプトマイシンを打ったり、山羊のお乳を飲ませたりして母の実家も相当お金を使ったようです。
 ぼくが生まれて半年後に亡くなったので、ぼくは全く記憶にありません。けっかくが移ってはいけないと赤ん坊を近づけなかったらしいのですが、ほんの数分だけ赤ん坊を見せたことがあるそうです。
 でもちょっと不思議なのは戦時中に英文タイプの仕事などあったのだろうか、という素朴な疑問です。
 浅草の元特攻隊の小父さんの話では海軍兵学校や陸軍士官学校では英語の授業があったそうです。全国的には英米語は禁止だったはずですが、海軍や陸軍に入隊する人が英文が読めなくては作戦も読み取れず役に立たないという理屈のようです。そう言われればそうですね。

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