昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

広尾界隈

 青山高樹町には往年の時代劇俳優、大〇橋〇が住んでいました。そこから西麻布方面に行くと日赤通り商店街があります。意外とそんなに広くはありません。
 ですが、実は青山高樹町と麻布笄町の境界線だったんですね。


 この通りの裏には西武のT氏の邸宅もあるようです。通り沿いに日赤病院や東京女学館があります。ベテラン俳優I所有のマンションもありますし、聖心女子大もあります。


 昭和59年ごろ近所の広尾に短期間住んだことがあります。朝7時に隣りの住人がお経を始めるので退去しました。そこの家賃は29000円でした。下宿型でトイレは共同、風呂なしでした。
 日比谷線「広尾」駅近くに銭湯がありましたので、そこに通いました。広尾の商店街の一本入ったところに銭湯がありました。


 その下宿を出て渋谷区東というところに住みました。世間では「風の谷のナウシカ」のテーマ曲を歌った安田成美が売れ始めていました。家賃はトイレ共同で風呂なしの27000円です。近所に銭湯がありました。


 ペンタスタジオで買った1万円弱のエレクトリック・ベースを銭湯への道すがら、電信柱の傍らに「ご自由に」と書いた紙をセロテープで貼って置いときました。
 銭湯の帰り、見てみましたらベースはもう無くなっていました。


ドグラ・マグラ

 昭和58年に乱歩を読み終わると同時に乱歩に関する評論を読みました。その中に夢野久作の名を見つけました。


 夢野久作の『ドグラ・マグラ』の文庫上下巻を2日間で読みました。夏でしたので、本のページにダニのような虫が這っていて、そんなことは初めてでしたのでとても印象深く覚えています。途中チャカポコチャカポコといった少し冗漫な部分はありましたが、概ね面白く読めました。
 夢野作品は他に「少女地獄」など文庫や単行本で読んだり、『夢野久作の世界』などの評論著作も読みました。


 夏の終わりに山形へ避難旅行に行った際は、リュックに小栗虫太郎の『白蟻』の文庫が入っていました。山形の宿泊先で読んだのを思い出します。その後も創元社文庫の小栗作品を買いました。


 あと前年か58年かに浅田彰の『構造と力』が流行りました。巻末の図解をノートに写したことを覚えています。『逃走論』も一応読みましたが、あまり面白くなかったです。
 ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』は単行本しか出ていませんでしたので、少々値が張りましたが買って読みました。くわしい内容は忘れましたが、当時は分かったような気がしました。半年1年を占う経済本より十数年単位の推移を見るような本のほうが読み応えがあると思います。『象徴交換と死』は途中で飽きてしまいました。


 下北沢の北野書店でよく「IN POCKET」(うろ覚えですが)とかいう小冊子(文庫サイズ100円)を見かけては買っていました。栗本慎一郎とか吉本隆明などの対談も載っていました。とにかくあのころはポストモダンとかニューアカデミズムとかいう言葉が流行ったので一応目を通しておこうと思ったわけです。

傘の持ち方

 昭和39年ある朝、赤坂見附から関東ローム層の地肌が見える崖の坂を上っていました。そこは後年東急ホテルが建ちます。
 朝から雲行きが怪しかったのか傘を持って歩いていました。坂の中腹で後ろを歩いていた6年生の生徒に呼び止められました。
 「この傘の持ち方だと危ないから、傘の先を前に持ちなさい」
 ぼくは4年生でした。5、6年生はかなりお兄さんに見えました。とはいえ同じ小学生に注意を受けるのはショックでした。6年生の彼はうちの近所の医者Sさんの息子でした。


 ショックでしたが、後々考えてみると、あの時注意してもらって良かったと思いました。以来40年50年意識して傘を持つことができました。傘の持ち方なんて些細すぎて親も先生も教えてくれないものです。でもどこかで誰かに教わったほうがいいしつけではないでしょうか。


 雨の季節など傘の差し方はある程度認識されていると思います。(傘を差してスマホを見ながら歩いている人はいます:論外)雨が降っていない時の傘の持ち方までうるさく言われません。人ごみで未だに傘の先を後ろに持ってブン回して歩いている人がいます。
 あれって相当危ないと思います。後ろに子どもが歩いていたら危ないし、歩道橋や駅の階段はなおのこと危ないです。そういう人を見ると子どものころにしつけされなかったんだなあと思うわけです。


 ついでに言えば電車内やスーパーなどで閉じた傘の先を外に向けて歩いている人は多いです。傘の取っ手(持つところ)の柄のあるほうを身体に引き寄せて周りに配慮している風を装い、逆に傘は斜めに傾くわけですから、先は外に向くわけです。
 取っ手を逆向きにすると、腕から抜けやすいし、そういう提げ方をすると自分の衣服が濡れるからという言い分があるんでしょう。
 要はスマホやケータイを見たいから傘に注意を払いたくないということでしょうね。

青山高樹町 麻布笄町

 乱歩の『ペテン師と空気男』に出てくる伊東錬太郎は青山高樹町に住んでいました。


 ぼくの幼稚園の同級生のWさんも青山高樹町に住んでいました。たぶんマンションに住んでいたと思います。現在彼女は六本木に住んでいます。


 高樹町は車に乗っている人は馴染みのある地名だと思います。現在の南青山7丁目付近です。

 高樹町ランプ近く



 赤坂から都電の場合、青山六丁目で乗り換えて骨董通りを抜けて一つ目です。渋谷からなら新橋行きに乗れば乗り換えなしだと思います。


 麻布笄町は西麻布の交差点の西側にありました。霞町の交差点という言い方がバブルのころなどに流行りました。

 笄町


 笄町には小学校の同級生のTクンが住んでいました。小5のころ彼のうちに6人ぐらい招かれたとき、寿司をごちそうになりました。初めてわさびの入った寿司を食べて鼻に抜けて目を白黒させました。


 現在Tクンはヨーロッパの世界的な観光地でレストランを経営しています。小学生のときから天然パーマで茶髪、目も少し青かったです。


 霞町はデヴィ夫人の実家の大工さんがあったそうです。


 現在でこそ同じ港区ですが、戦後まもないころは青山高樹町は赤坂區、西麻布は麻布區でした。

ライブ活動

 昭和56年ごろです。Nさんのバンドでライブ活動していました。


 初台の「騒(がや)」ではわりとフリーな演奏が出来ました。雰囲気のいいライブハウスでした。
 曲の中のインプロヴィゼーションでは楽器を交換してみました。実際にはバトンタッチのようにぼくがピアノを叩いたり、キーボードのKさんがシンセを、シンセのSさんはベースを、Nさんがドラムを、ドラムのNさんが小物をというような交換です。
 ふだんのライブより落ち着いた演奏が出来ました。


 青山の「発狂の夜」でもけっこうアグレッシブな演奏が出来ました。このころエレクトリックベースを変えた時期です。ペンタスタジオで売っていた1万円弱のベースを衝動買いしてしまい、それを使っていました。かなり安っぽい音しか出ませんでした。
 「発狂の夜」というライブハウスの名前もかなりきわどいですが、インプロヴィゼーションもやはりきわどいものになりました。ボーカル用のマイクがスタンドに設置されていましたので、「バカ!」を連発して日頃の鬱憤を発散しました。
 「発狂の夜」の場所は判りにくかったです。青山トンネルの近くなのですが、一瞬青山ケンネルに聴こえたのでちょっと戸惑いました。