昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

床屋さんの匂いが好き

 5年ぐらい前に床屋さんにデビューしました。何十年ぶりでした。この20年ぐらいは1000円カットで済ませていました。でも店の人の対応が今イチだったので久しぶりに床屋さんに行ってみました。


 JRの水道橋駅近くにある昔ながらの理容室です。1100円と安い。
 想い起こせば80~90年代渋谷に1200円ぐらいの理容室があって、世田谷から自転車で通っていました。渋谷は道玄坂上と渋谷警察の向かいとありました。


 昭和55年ごろまで世田谷でも理容室の相場は3000円でした。ちょうどテクノが流行りテクノカットが流行っていました。でも床屋さんでテクノカットにしてくれと言うのは恥ずかしかったので、もみあげを短くしてくださいと頼んだら、テクノカットでよろしいですかと訊かれたので、ハイと小さな声で返答しました。


 水道橋の理容室はカットが巧く感じも良かったので10回ぐらい通いました。
 ただ顔を剃られるのがイヤで剃って出かけます。顔を剃るのを断ります。顔を剃るのを断っても首のところ頸動脈のところは剃られます。特に耳の上とか。それが徐々に恐くなって通わなくなりました。


 でも床屋さんの魅力はあの独特の匂いです。何とも言えないいい匂い。あの匂いを嗅ぐと気分が落ち着きます。通わなくなってその匂いも忘れていました。


 最近偶然その匂いに出会いました。


 CMでアトリックスのミルキーボトルだかそういう名称の商品を知って、それが欲しくてドラッグストアに行きました。店員さんがベタつきますよ、と否定的なことを言うのです。じゃ、どれがいいかなと他の商品を試しに垂らしてこすったりしてみました。
 価格的にたまたま400円台だったのでニベアのスキンミルクしっとりという商品を買ってみました。
 使ってみてビックリ。まさに床屋さんの匂い。手がザラザラ乾燥するので手にしか使いませんが、毎回鼻を近づけると床屋さんの匂いがパーッと広がります。手にクリームをつけてこするだけでも面倒臭かったのに、これなら頻繁に使えるしリピートするつもりです。

ライカで撮った大阪

 2008年3月、つまり食い倒れ人形が無くなる一か月ほど前に大阪見物しました。そのときライカを持っていきました。ライカはM3が有名ですが、ぼくが持っているのはバルナックライカといって1932年ごろ製造の古いカメラです。そんな古いカメラで写るのかと思われる方も多いでしょう。レンズはエルマーといってすこぶる良く写ります。


 腕がない分良いカメラでカバーしたい気持ちもありますが、古いレンズは新しいレンズでは得難い味があります。2006年にフランス旅行に行く直前にライカを買いました。でもフランスにはライカを持っていきませんでした。


 扱いが面倒でまともに写るまで慣れないと使いこなせなかったので、フランス旅行には間に合いませんでした。
 だんだん慣れていき、日本橋人形町を撮ったときに、老舗の印章屋とか洋服屋さんのウィンドウの昔ながらの硝子窓が昭和初期みたいに仕上がりました。つまりレンズの製造された昭和7年ごろの描写がレンズの中に残っている、とぼくなりに解釈しています。


 大阪では梅田のビジネスホテルに泊まって翌日アメリカ村を見て歩いたり大坂城を見物しました。大坂城の天守閣から大阪の街をライカで撮りました。下に降りると似顔絵師がいたので描いてもらいました。ほんの数分で上手に色紙に描いてもらいましたが、たった500円でした。
 タクシーに乗ってなんば駅まで行く途中運転手さんにそのころ流行っていた宮川大輔の話をしたところ「大助&花子面白いですね」と言うので「そっちじゃなくてピンのほうで若い人がいますよね」「テレビあんまり見ないんですよ」と返ってきたので、意外に大阪でもそんなものかなと思いました。


 なんばのタワレコで意外なお宝CD、フォーレのピアノ五重奏曲を発見したときは驚きと嬉しさが押し寄せました。そのあと道頓堀というかミナミというか「かに道楽」の大きな看板とか食い倒れ人形などを撮りました。


 でも腹が立ったのはしゃがんでフィルム交換しているときに若い観光客カップルの男にデジカメを手渡され撮ってくれと言われたときです。
 バルナックライカはフィルム交換のとき巻き戻しを完全に終えて裏ぶたと底板をカパッとはずします。両手がふさがった状態です。新しいフィルムを装てんする際はフィルムの片側半分をハサミで切って尾っぽを長くしないといけません。そういうややっこしい慎重さを要する作業をしている時にデジカメを手渡されると腹が立ちます。
 カメラをいじっているから大丈夫と思って頼みやすいんでしょう。というかモノを頼む相手の状況をまったく考えてないんですね。離れたところで二人でつっ立って待ってるのですから。


 人気のお好み焼きの屋台は行列が長かったので諦め、ビル内の店舗でたこ焼きとお好み焼きのセットを食べました。みやげ物屋でトランプを買ってミナミのビジネスホテルに泊まり、翌日ホテルのレンタサイクルで新世界の通天閣まで行きました。途中の日本橋電気街にあるうどんのチェーン店のスタンドで食べたうどんとお出汁は美味かったです。


 新世界はライカで撮りまくりました。大きなちょうちんとか派手な看板がたくさんありました。肩車しているカップルや酔っ払いのオッサンとか以前今田や河本がテレビで言っていた通りでした。旅回り一座の芝居小屋もありましたし、通天閣の上では歌謡ショーも催されているみたいでした。通天閣の上には上りませんでした。


 出来上がった写真は我ながら上出来でした。モノクロとカラーの両方ですが、どちらもピントびったし露出バッチリです。なかなか際立った描写力でさすがライカと思いました。
 そのネガなり写真をスキャンしてここにアップする知識も技術も無いので、残念ながらお見せできません。
 今度ラボにネガのデータをCDにしてもらえたら、そういう機会があったらアップできるかもしれません。

「夜の蝶」京マチ子 山本富士子

 「夜の蝶」という大映昭和32年の映画を見ました。だいぶ以前テレビで放映されたのでVHSで録画したのを楽しんでいましたが、やっとDVDも安くなり改めて見てみました。
 やっぱり面白かったです。主演は京マチ子と山本富士子。どちらもバーのママです。舞台は銀座です。

 冒頭昭和32年の銀座のネオン街がカラーで写ります。けっこうそれも貴重な映像です。船越英二が橋のたもとでタバコを吸っていますが、下を流れているのは銀座川でしょうか、築地川でしょうか。女給志願の女性が船越に道を訊きます。
「あのう、ジャズ喫茶どこでしょうか?」
「ジャズ喫茶っていったってたくさんあるさ」
「カリプソっていうんですけど」
「カリプソなら・・・」


 昭和32年といえど、1957年です。戦後~1950年代はラテンが流行りました。日本ではラテン一般をジャズと呼んでいた時期がありました。だからジャズ喫茶と言っても60年代70年代のジャズ喫茶とは趣きが違ったと思います。1950年代まではラテンが流行りで生演奏が主流だったのではないでしょうか。


 船越の役はバーで働くホステスや女給の周旋をやるマネージャーみたいなものです。元はクラシックヴァイオリニストでしたが、戦争で左手を負傷しその道を絶たれました。「3人の会」の團伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎と同世代という設定です。


 川崎敬三も20代の若者で出演しています。川崎は学生時代六本木のクリーニング店でバイトしていて六本木界隈で評判の美青年だったそうです。それで映画関係者にスカウトされたようです。
 花屋さんのシーンもありますが、いけばなは勅使河原霞が担当していてさりげなく「蒼風展」のポスターも店内に貼られています。
 出演陣も多彩で後年作詞家になる女優も登場します。バーの客役の中村伸郎、三津田健、小沢榮、宮口精ニとかいます。


 京マチ子と山本富士子が主演で銀座での縄張り争いをするのですが、山村聰がキーマンです。京も山本も関西出身ですからとくに山本の京都弁がすごい。実際の銀座の人はあっさりしていると思いますが、関西から乗り込んでくる人の意気込みはすごいものを感じさせます。


 船越は缶ピースを持ち歩いてどこでも缶を置いてピースを一本咥えます。ライターもあの時代のライターで火をつけて何気ないシーンですが、何とも言えない懐かしさを感じます。タバコに火をつけたり火を借りたり火をつけてやることでコミュニケーションの役割があったことを思い出させます。缶ピースは文豪のイメージがありますが、一般の人が持っていてもカッコいいなと思いました。


 映画はクライマックスからあっさり終結を迎えますが、船越の恋人だった穂高のり子が新しいママになります。この穂高のり子という女優は東映の高毬子にどこか似ていて親戚ではないかと個人的には思っています。


 音楽は池野成という人ですが、「ゴジラ」昭和29年で伊福部昭のアシスタント担当でした。現代音楽の黛敏郎の手法を受け継ぐ斬新な作法を確かに感じさせます。


 カラーはアグファフィルムを採用していますから、色合いが変わっています。日本人洋画家が油絵で日本人を描いたような感覚が出ています。昭和っぽいどぎつさとういうか、まさにレトロな絵葉書のような着色です。

李白は中国人ではない?

 李白(701-762)の血筋は漢民族ではないとする説が有力です。トルコ系らしいです。李白の父親李客は西域の行商人だったそうで、一説には隋の時代にトルコに追放された先祖の末裔ではないか、というのがあります。


 李客の客は名前ではなく、よそものという意味です。そうなると胡人つまり異民族が中国に入ってきたという意味合いが強くなります。姓の李も元々のものではありません。そのあたりは明確ではありません。


 科挙の試験は受けていません。実力は十分あったでしょうが家系の問題があったと思われます。後年推薦によって役人になりますが、実態は高等遊民でした。


 李白の号の青蓮居士は青蓮郷の出身だからとするのは誤りです。生まれは中国国外です。青蓮郷は育った場所です。だとすると目の色が青かったからではないでしょうか。李白の白も肌の色のことだと考えれば納得できます。まあ混血だということですね。


 中学のクラスメイトのRくんは中国人でしたが、肌が白く目も青かったです。お父さんは中国文学者でした。


 李白は酒豪でした。中国人は元来酒に強いのかもしれません。ですがもしトルコ系だとすれば尚の事アルコールに強かった可能性は高いです。


 李白の詩に楊貴妃の美しさを牡丹に喩えたものがあり称賛されましたが、後年それがあだとなって追放されました。
 ちなみに楊貴妃はすでにワインを飲んでいたようです。


 李白は酒の席で自分は人を殺したことがあると豪語したそうですが、そこまでいくとちょっと信じがたい話になってきます。


 詳しいことは『李白と杜甫』高島俊男(講談社学術文庫)などを参照してみてください。

新駅名 品川 田町

 「品川」と「田町」の間に駅ができて駅名を募集してるみたいです。「品川」と「田町」駅間は確かに一番離れています。


 品川に住んでいたころ、第一京浜を自転車で通って日比谷通りや銀座方面によく利用しました。
 右手にルノアール、左手にタリーズがありました。バスの駐車場もありました。
 浅草線の「泉岳寺」駅の向かいにわりとちゃんとした公衆トイレがあり都心からの帰り時々利用しました。タクシーの運転手さんが利用しそうな場所です。


 付近に低いトンネルもありました。JRの線路東側に通じるトンネルですが、自転車の場合、頭をぶつけてしまうのでかがめて通ります。懲りて一度しか通っていません。タクシーが通り抜けるところは見たことがあります。トラックは無理だと思います。


 第一京浜沿いにバス停の「高輪北町」があります。「品川」駅までずらっと客待ちのタクシーが並んでいますが、運転手さんの表現だと「泉岳寺から並んでるよ」という言い方になります。ざっと30台は並んでいました。


 JRの「田町」駅に隣接して地下鉄の「三田」駅もありますから、新駅に「三田」はおかしいと思います。
 地下鉄「泉岳寺」駅は「田町」~「品川」間のほぼ中間にあります。JR新駅が具体的にどこにできるか知りませんが、ほぼ中間にできるとすれば「泉岳寺」でもおかしくはないと思います。「高輪北町」ではJRの駅としてはどうかなと思います。


 「高輪」、「芝浦」案も考えられますが、地下鉄の「高輪台」より高輪らしくない場所に「高輪」はどうかな?と思います。
 高輪プリンスホテル(現存してますか)は「品川」駅が近いのですから混同しやすい。


 「泉岳寺」という駅名に抵抗感がある気持ちも分かります。
 が、「吉祥寺」も「高円寺」も「国分寺」もありますね。
 吉祥寺は駒込にも「きっしょうじ」という寺があります。国分寺は他県にもあったと思います。


 「品田」と言う人もいるようです。品川+田町で。「品田」だったら「泉岳寺」のほうが分かりやすいんではないでしょうか?


 「芝浦」というと田町や浜松町のイメージがあります。