昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

放課後

 あのころはのんびりした時代でしたから、塾通いなんてものは受験のためではなく、放課後クラスの友だちに会えるという軽い動機で行ったと思います。学校のような緊張感は無くリラックスタイムでした。
 赤坂新町のT君や一ツ木町のY君、同じく一ツ木町の甘味処立田野のIさん、ハッサンなどと赤坂六地蔵(浄土寺)の裏のM塾というところに通っていました。戦前に建てられたのか、そのころすでに古い木造建築の家で小母さん一人で塾を営んでいました。漢字の書き取りなど100問中98点ぐらい採れるちょっと簡単なテストばかりでした。
 敢えて塾を変える気もなく、さりとてM塾に居残るという強い気持ちもありませんでした。そういう時にハッサンが四ツ谷駅近くに光文という塾がある、というのでみんなそちらに移るなら自分も行こうと思ってM塾を辞めました。5、6人いっぺんに辞めたのでさぞかし小母さんはショックだったと思います。
 光文に通い始めたらクラスメイトの女子たち、Tさんやおかめも来ていました。赤坂より四ツ谷のほうが交通の便が良かったせいか、普段学校でもあまり口を利かない女子もいました。
 授業の休み時間、みんなで馬乗りをやっていました。おかめも馬の中に参加していました。ちょっと太めのハッサンが勢いよく飛び乗りました。その瞬間おかめが崩れ落ちました。おかめは足を骨折していました。彼女は学校も休むことになりました。


加山雄三

 小学校の放課後、中華料理店の娘Uさんと一緒に帰ったことがありました。Uさんは以前平河町あたりに住んでいたと思いますが、杉並に引っ越したというのです。のちに東急ホテルが建つところ、ちょうどそこは関東ローム層がはっきり見えるところで地層の研究者の注目する場所でしたが、その側道の坂を下りていきました。
 そのころ加山雄三の「お嫁においで」が流行っていました。ぼくは歌詞があやふやだったので、歩きながらUさんに訊きました。Uさんは2番も3番も完璧に歌詞を覚えていました。
 「蒼い星くず」と「夕陽は赤く」はシングル盤を持っていたので歌詞はバッチリわかります。でも新曲の「お嫁においで」はレコードも買ってないですし、テレビやラジオで聴くしか情報が得られません。
 やはり女子の集中力はすごかったなぁと、というかUさんに訊けばたいがい判るだろうと予想はしていました。なぜならUさんはぼくよりだいぶ背が高く体格が良かったからです。かなり大人びていました。
 赤坂見附駅に着いて彼女は地下鉄に、ぼくは一ツ木方面へ、バイバイと別れました。

初恋

 小学3年のころ初恋がありました。1年生から4年生までクラス替えが無かったので、一目ぼれではないです。年に何回か遠足に行くわけですが、そのたびに集合写真を見ると年々可愛くなっていく人がいました。毎日同じ教室にいるのに、写真を通して憧れるという、古風なのか現代の二次元的感覚なのかよくわからない恋心でした。
 その人は千代田区にあるMレストランの娘コッペです。コッペは、幼稚園はぼくらと一緒ではなく、緑に囲まれたところに通っていたそうです。のちにコッペは赤坂の私立中学に通うようになり地下鉄を利用するようになりました。緑が無い代わりにマンウォッチングが出来たそうです。
 同期のIさんもコッペと同じ幼稚園に通っていました。Iさんの家からは泰明小学校のほうが近いですが、住所が千代田区なのでぼくらと同期になったのです。Iさんのお兄さんはグループサウンズの一員で有名人でした。
 5年生になってクラス替えがありました。コッペと同じクラスのままで結果6年間一緒だったわけです。
 ところが運命のいたずらか、転校生のOさんに興味が写ってしまい、Oさんには直接話しかけることが出来ました。加山雄三の「蒼い星くず」のB面「夕陽は赤く」を台町のリビングで聴きながらOさんの住む渋谷区の方向を思い描きました。
 結局コッペは手の届かない存在で、事実40代後半に同窓会で会った時に初めて言葉を交わしたほどです。

テアトルボウリング

 円通寺の坂の中腹にテアトルボウリングがありました。小学6年ごろテアトルボウリングに100円玉2個ぐらいをズボンのポケットに入れて遊びに行きました。
 目当てはボウリングではなく、右手にあるレーシングカーとピンボールでした。レーシングカーはAコース、Bコース、Cコースと選べて値段も違っていたかもしれません。5年生ぐらいにどうしても欲しくて親にねだって最も安い1500円のサンダーバードを買いました。小学生にとって1500円がぎりぎりねだれる金額でした。ところが他の子が操縦する2000円や3000円する車にはかないません。走りが全然違います。やがてそれは飽きました。
 次に熱中したのは、ピンボールです。テアトルボウリングに入ってすぐ右側にずらっと並んでいました。ぼくはボールをフリッパーでヒットするのは得意でした。初対面の中1の人と片手ずつフリッパーを受け持ち、誤作動もあって64ゲームぐらい上がりました。ある点数以上に達すると「スコーン」と小気味のいい音で1ゲーム上がります。ぼくたちは息も合ってかなり点数も行って何ゲームも上がりましたが、機械の誤作動で「スコーンスコーン」と続けて上がり64ゲームまで達したのです。
 あのころはまだ子どもでボウリングは大人がやるものと思っていましたので、奥のボウリング場には全く関心がなかったです。実際にボウリングを始めるのは昭和45年です。世田谷に引っ越して高校生になっていました。

赤坂台町の2階を貸す 続

 C号室には大人の雰囲気の30歳ぐらいの二号さん~Yさんも住みました。Yさんは南青山の有名なアパート(マンション型)に引っ越しましたが、祖母と母と3人で遊びに行ったことがあります。


 のちに同じ苗字のYという十代のアイドル系の容姿をした双子の姉妹もC号室に住みました。この双子は巧みに入れ替わり中年のオヤジをたぶらかすようなすれっ枯らしでした。
 A号室のNさんは30歳ぐらいの二号さんでしたが、真面目な感じのOLさん(もしかするとまだBGと呼ばれていたかもしれませんが)で茶色の車(確かブルーバードの柿の種)をうちのガレージに駐車していました。


 B号室が空き家になった時、往年の有名俳優Iさんが女性に住まわせるために部屋を見に来たことがあります。その方の葬儀にはお妾さんが数人参列したと噂で聞きました。
 D号室には19歳ぐらいのWさんが住んでいました。彼女は銀座のホステスさんでした。雰囲気が奥村チヨに似ていました。コケティッシュな感じもそっくりでした。昭和40年ごろで世代もほとんど同じです。Wさんの部屋に母と遊びにいくと洒落たクッキーやパイ、ウィスキーボンボンなどを出された記憶があります。


 個々人のおつき合いで見れば良い人も多かったと思います。ただ祖母は孫の教育上よろしくないと感じていたようです。