昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

六本木で見つけた詩集

 神谷町に住んだとき、六本木の青山ブックセンターで田中冬二の詩集『青い夜道』を見つけて立ち読みしました。5000円+税もしたので半月ぐらい迷い、三度通ってやっと買いました。
 本は昭和モダンな装丁で昭和4年の刊行ですが、昭和45年に復刻されたものです。初版には二圓五十銭とあります。フランスの本みたいに一頁ずつペーパーナイフで切って読むようになっています。
 何度も立ち読みしたのは値段が高いせいもありますが、ページが袋状になっていて広げて見るのに手間がかかったせいもあります。


 「筑波の町」             田中冬二
 わたしは とほくから見たあのむらさきの中に ゐる
 筑波の町は石段と石榴(ざくろ)の木と 青竹の樋から樋をとほる山水の音
 小さい揚屋の軒に雨雲のかげ そして米泔(しろみづ)いろの小さい四角の池には
 さむい金魚が おもくういたり しづんだり
 くすんだ旅籠の二階に ならんだ朱塗のお膳
 はしごだんをあがってゆく女の素足
 ねぎの畑の下に茄子畑 そのまた下は 軒下にいっぱい大根をさげ
 くびり藁をほしならべた百姓家の庭 靑いみかんが ぽつりぽつりに
 こつそりさいた茶の花 どこからとんでくるのか 足もとに
 ばさばさと たいへん大きなかしわの枯葉


 自然なフレーズに詩情が感じられます。
 
 本を買った人はたいてい本屋の目の前のバス停から渋谷方面に向かいます。でもぼくは反対側のバス停から東京タワー方面に行きます。ちょっとした優越感に浸っていました。バスもがら空きです。「飯倉」で降りて徒歩5分以内で自宅のマンションに着きました。深夜の飯倉あたりは人気が無かったです。


 もっともぼくの場合自転車で終バスを気にせず角の「富士そば」で晩飯を済ませたりしていました。まだ東日本大震災よりだいぶ前で94年の秋ごろです。翌年阪神淡路大震災やオウム事件が起きました。
 ですから六本木の青山ブックセンターも朝5時まで営業していました。
 自転車に乗っていると思わぬものを発見します。六本木の路上を駆け巡るネズミがいました。


 神谷町のマンションは欠陥物件だったのでわずかの期間で退去しました。実家に戻って二、三か月して地下鉄サリン事件が起きました。話を盛るタイプの母は神谷町で1000人倒れたよ、とぼくに伝えました。確かにたいへんな事件でした。

江戸漢詩の吉原

 江戸漢詩の中でわりとやわらかめの吉原の風景の詩を見つけました。市河寛斎の「北里歌」です。北里とは吉原遊郭のことです。


 もともと中国で竹枝というのが男女の情事を詠じたものでしたが、江戸の後期にも竹枝は試みられるようになって『日本竹枝詞集』が編纂されました。寛斎の「北里歌」も含まれています。


 (現代語訳)
 昨夜からの二日酔いで、花の盛りの朝だというのに床についたままの花魁が、盛んに酔い覚ましの煎じ薬をほしいと催促するので、つきそっている禿(かむろ=少女)が二階から降りて、家のなかから簾越しに向かいの家の薬屋を呼んでいる。


 (読み下し文)
 夜來、酒に病み花晨に臥し、酔ひを解く香湯、索(もと)め得んとすること頻(しき)りなり、閣を下る丫鬟(あ・くわん)、戸を出でず、簾を隔てて連呼す、対門の人。


 (原文)
 夜來病酒臥花晨
 解醉香湯索得頻
 下閣丫鬟不出戸
 隔簾連呼對門人


 (注)
 丫は「あ」です。鬟は「くわん」つまり「かん」です。髪を束ねた意味です。


 市河寛斎は1749年生まれです。同世代には大田南畝1749年生まれ、菅茶山1748年生まれがいます。ゲーテは1749年生まれです。

赤坂氷川山車保存会

 今年9月に赤坂氷川山車巡行が行われたようです。平成19年に氷川神社の山車の巡行が再開して10年めということです。将来的には9体全部の山車が出られるように、それが目標だと赤坂氷川山車保存会の副理事長のI野さんはおっしゃっていました。


 ただ山車の数は少ないものの実は平成3年にも巡行はありました。他の年もあったかもしれませんが、平成3年は8ミリビデオで撮影しましたから確実です。10月24日に第12回「赤坂まつり」が催され、山車も出たのです。


 平成3年の山車は恵比寿天、源頼義、花山車、日本武尊でした。今年のように猿などの山車の修復されたものは出ていなかった。つまり平成19年から山車が復活して少しずつ上に乗っている神様が修復されていったということなのでしょう。


 だからと言って平成3年のお祭りが規模が小さかったわけではありません。
 だいいちコースが違います。
 氷川神社、赤坂通りの信用金庫の前、外堀通りに出て山王神社前、ベルビー赤坂(現ビックカメラ)、一ツ木通り、TBS前です。
 山車の他に赤坂奴、手古舞、木遣り、三和銀行、裏傳馬町囃子、一ツ木睦囃子、港信用金庫、大和証券、赤坂六七町会、鹿島建設の巡行がありました。


 それと芸者会の移動舞台車が唄と三味線、お囃子、舞踊の芸者衆を乗せて巡行しました。これが一番注目されました。


 演目は「お江戸赤坂」「おたがいに」「りきゅうぶし」「きりぎりす」「つくだ流しさわぎ」です。


 思い出しましたが10年ほど前に見たのは稚児行列のような氷川神社まつりの巡行でした。それはまたコースが違っていました。「青野」の前を通って行ったと思います。


 ちなみに保存会副理事長のI野さんは昔お豆腐屋さんでした。後年ビルが建ち喫茶店を経営していましたが、その後のことは分かりません。表町のほうまで豆腐を売りに来たのは先代の方だと思います。鍋を手に持って豆腐を買いにいきます。うちの前で停まるので現在のコンビニより便利です。I野さんは両親の仲人さんでもあります。


 以前理事長としてお見掛けした畳屋のK所さんの旦那さんは祖母の職場の部下でした。
 お二方共赤坂に何十年も在住でしかも健在でいらっしゃる。喜ばしく羨ましい次第です。

広島県、山口県の旅 

 平成の初め、広島県の鞆の浦に行きました。広島駅まで新幹線で行き、駅前のビジネスホテルにチェックインしてから阿伏兎観音ってどの辺ですかと聞いたら岡山寄りだというので、慌ててチェックアウトしてそのまま駅に取って返し電車に乗りました。


 その時何という駅で降りたか覚えていませんが、どこかの駅で降りてタクシーに乗りました。
 中国地方は初めてでしたので、バスなど使っても埒が明きません。タクシーの運転手さんの言うがまま鞆の浦まで向かったのです。古い街並みがタイムトリップしたみたいに優雅なところでした。


 鞆の浦の街角でタクシーを停めてお店に入りました。その時は運転手さんも同行しましたが、保命酒という梅酒の祖先みたいなお酒を試飲しました。甘くて深い、梅酒より味わい豊かなお酒でした。一瓶買い求め、その店に置いてあった精密に街並みを描いたイラストの絵葉書も買ってタクシーに戻りました。
 古風な家並みの道端でも記念写真を撮りました。ペンタックスのオートフォーカス、ズームレンズのフィルム式カメラです。昭和の終わりごろ一世風靡した時代のあだ花です。


 その足で阿伏兎観音まで行きました。といっても地図で見るとけっこう離れています。このころになると運転手さんも信用してくれたのか、一人で見物しました。運転手さんは車内で待っていました。(たぶんカバンは車内に残しカメラだけ持って行ったと思います)阿伏兎観音は瀬戸内海に突き出した崖の上みたいな危なっかしいところにあります。ペンタックスでバチバチ撮りまくりました。


 実はミステリードラマで呉服屋の旦那が二度めの妻の罪をかぶって身投げしようとする現場が阿伏兎観音でした。平成2年の正月特番で放送された藤田まこと、長谷川真弓主演の「幻の殺意」です。でも真犯人は妻ではなく旅回り一座女座長(赤座美代子)でした。


 藤田まことは一座お付きの床山さん、長谷川真弓は娘です。瀬戸内海に面した風光明媚な場所のロケで、夏木マリが石段を上がったところにある小料理屋の女、実は長谷川真弓の産みの母という設定です。ミステリー仕立てですが、娘の誕生秘話にまつわる人情劇です。
 監督は小野田嘉幹、女優三ツ矢歌子の旦那さん。息子も刑事役で出ています。


 その日は駅前のビジネスホテルで泊まりました。翌日新幹線で山口県に移動し萩市に向かいました。萩市の城跡を見たり菊が浜のキレイな砂浜を見ました。それと萩市の長正司公園の藤棚も見ました。城下町の家並みも被写体として魅力がありました。


 もう年末でしたので、萩市の商店街はシャッターが閉まっていました。


 東京に戻ったのは大晦日だったと思います。

新潟県中越地震 ボランティア

 2004年10月の新潟県中越地震の後日ボランティアに行きました。それまでボランティアの経験はなく、とにかく現地に行ってみようと何も計画なしで新潟へ向かいました。


 2004~5年はプライベートでもいろいろとあり頭の中が取っ散らかっていたので、世間に疎くなっていました。貴ノ花が亡くなったことさえ知らなかったのです。


 でも新潟で地震があったと知って居ても立ってもいられなくなりATMで50万(生活費込)おろして現地に向かいました。新潟に縁も所縁もないのでビジネスホテルも直前に決めました。


 よく覚えてないですが、翌朝新潟駅前にボランティアの人たちがずらっと並んでいて、それに加わったと思います。何台かのマイクロバスで現地に行きました。
 瓦礫の山もあり住宅の倒壊もしくは半倒壊が散在していました。倒れていない家の中に入ってタンスとか家具を立て直したり外に運んだりしました。


 知らない同士でボランティアをやるうちに話をするようになって、ぼくより一回り上ぐらいの人と親しくなりました。その人は新潟の人でした。軽トラで来ていました。


 その人とは二度めのボランティアの時に会いました。実は二度ボランティアに行ったのですが、そのときに軽トラの助手席に乗せてもらって新潟見物をさせてもらいました。


 軽トラに乗るのは初めてでしたので少し不安でした、田中角栄の実家も観に行きました。正直あまり興味がなかったのでどんな家だったか思い出せません。その人と平凡な定食屋さんで食事したことのほうが面白かったです。別れ際ガソリン代として5000円渡しました。二度めのときは30万おろしていました。おじさんとは年賀状のやりとりはしましたが、翌年ぼくは引っ越しましたのでそれっきりになりました。


 二度とも新潟駅に隣接しているホテルメッツを利用しました。二度とも二泊三日でした。ベッドがふかふかでした。朝食と夕食はホテル内のレストランを利用しました。朝食は和食でした。和食かパン食か選べたと思います。夕食のカキフライ定食がうまかったです。カキフライ定食は三度ぐらい食べました。店長がイッセー尾形に似ていました。


 ホテルメッツの名前は忘れていましたが、ロゴを覚えていたので赤羽駅で見かけたときに、ああ、あの時のホテルだと思い出しました。