昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

はっぴいえんど

 以前、三田の街並みを書いた際にはっぴいえんどの「風をあつめて」とか「夏なんです」は話題に出しました。
 「風街ろまん」のアルバムを買ったのは昭和48年だったと思います。
 
 少し遅れてはっぴいえんどは好きになりました。昭和46、7年、高校のクラスメイトKが隣りの席だったもので「風街ろまん」のLPジャケットを持ってきて見せてくれたことがあります。
 その時の印象は四人ともカメラ目線でにらんでいるように見えて、ちょっと人相の悪い人たちだな、というのが正直なところでした。


 でも「GUTS」か「ニューミュージックマガジン」か「ヤングギター」か忘れましたが、三枚目のアルバムはアメリカで録音しているらしい、ことは音楽誌で見て知っていました。


 ラストシングル「さよならアメリカさよならニッポン」がラジオから頻繁に流れていました。「ア・メ・リ・カ~♪」のアクセントというかイントネーションがわざとらしくて鼻についていました。シャラくさいと思っていました。
 だから1973年9月21日の解散コンサートには行かなかったんです。


 でも前年のやはりラジオから「風をあつめて」とか「はいからはくち」はけっこう流れていて気にはなっていたんですね。
 
 そのうち細野晴臣の「恋は桃色」が頻繁にかかるようになり、それがカントリー風でペダルスチールギターがやたら気になりました。


 我慢できなくなって下北沢の「シェルブール」というケーキ屋の隣りがレコード屋だったのですが、
 そこで「風街ろまん」を買いました。
 何となく長田楽器で買うレコードじゃない、シェルブールの隣りで買う種類のレコードだと決めていたところはありますね。「抱きしめたい」のイントロからちょっと変わってる、変則的なリズムからベースが入ってくるのがいいと思いました。

 たくろうを聴いていた時と気分が全然ちがっていました。


60年代ジャズ


  Sahib Shihabというジャズフルーティストのアルバム(澤野工房)があります。


 デンマークラジオジャズグループによる録音ですが、これが非常にいいんです。若かりし頃のニールス・ぺデルセンもベースで参加しています。

Sahib Shihab - Sahib Shihab and the Danish Radio Jazz Group [Full Album]


 これを聴くとぼくらの世代だとスパイ物のテレビドラマを連想しますが、一番に思い浮かぶのは意外にも「8マン」です。


 Sahib Shihabのジャズは1965年の録音、「8マン」の放映は1963年(昭和38年)です。
 殺し屋ゲーレンとか水沢博士(女性)が出場すると都会の夜のしじまにモダンなジャズがかかり大人の世界に導いてくれました。

 ゲーレンは殺し屋なのにジャケットがオシャレで水沢博士は超美人。ゲーレンも水沢博士も黒いサングラスが似合います。
 水沢博士が斃された際も8マンはお姫様抱っこして残念そうです。そのラストシーンのかっこいいこと。


 そもそも東八郎が警視庁捜査一課の刑事時代に、悪者一味に狙撃されるシーンから60年代ジャズは流れていた気がします。

(エイトマン, 8 Man Episdoe55 Super human mutant prequel EnglishSubtitles
 これを実写でやる場合、田宮二郎とか小嶋一郎(ナショナルキッドの人)ぐらいしかキャスティングできないのではないかと思ってしまいます。

太地喜和子

 太地喜和子は幼少期から市谷河田町で育ちました。


 東京女子医大のバス通り、あの女子医大通り沿いにタワーマンションがあります。スーパー「サントク」もあります。以前フジテレビがあった付近です。
 あそこらへんに昔江戸のころに徳川さんの下屋敷があったそうです。


 それが戦後まもなくかに都営住宅になって、といっても文化住宅いわゆる長屋仕立てのバラックだったそうですが、そこに太地喜和子は住んだわけです。昭和18年生まれですからホントに戦後まもなくでしょう。
 隣り町は市谷仲之町ですが、そこにある牛込仲之幼稚園~小学校に通いました。


 「若松河田」駅の出入口のところに今はタリーズがありますが、あそこの通りは職安通りです。
 若松町交差点で二又三又に分かれていますが、北側の通りはそのまま大久保通りで、北上すると喜久井町、東の柳町方面へ行く途中に昔「寿美浴場」という銭湯がありました。
 
 近くに下宿していたカバン持ち時代の志村けんが通っていたということです。


 職安通りを西に行くと抜弁天という小さいお宮さんが通りの角にあります。柳町の団塊小父さんの話では、抜けられる路地があるから抜弁天と言う、んだそうです。ホントかどうか判りません。


 太地喜和子の思い出話にも抜弁天は出てきました。若い俳優が近くで育ったというと私も近所で育ったのと番組で言っていました。


 抜弁天の裏に余丁町があります。最近は市谷台町から上がってくる道路が拡幅されたせいか余丁町に瀟洒なマンションも建ちはじめました。
 路地を入ると出世稲荷があり近くに永井荷風の実家も一時あったということです。祖父母も大正時代の短期間余丁町に住んだことがあります。


麻布十番

 はっぴいえんどの「風街ろまん」に入っている「暗闇坂むささび変化」を聴くと連想するのは麻布十番の風景です。麻布十番は今は町名になっていますが、昔は十番通りの名はあっても、町名は宮村町、一本松町、宮下町、坂下町などという地味なものしかありませんでした。


 祖母の部下にTさんという麻布十番の質屋の大正生まれの息子さんがいました。Tさんらと祖母が慰安旅行に熱海とか行った際の画質の鮮明な白黒写真があります。
 Tさんは旧制麻布中学から陸軍兵学校、軍隊入隊で戦時中は南方にいましたが、ヘビやカエル、トカゲを食べるのは当たり前で、最後の最後は飢え死にした戦友の肉も食った、というのです。
 それは祖母からの又聞きだったのですが、うちが世田谷に引っ越し数年経ったころTさんが訪ねてきたことがあります。そうした際に本人からその話を聞くことができ、本当だったんだなと思いました。

オートバイ

 昭和39年か40年ごろは赤坂一ツ木通りの古本屋に通いつめて探偵小説を買っては読んでいました。このことは以前も書きました。


 甲賀三郎の『姿なき怪盗』とか『黒い天使』に夢中になりました。挿絵もあってイメージしやすいのは、謎の山羊髭老人と獅子内探偵が颯爽とオートバイに乗るシーンです。


 獅子内探偵の影響で大人になったら背広にネクタイでオートバイに乗るもんなんだと思っていました。
 カミナリ族とかの存在は知らなかったですね。とはいえ近所の高校生がジーパン姿でオートバイに乗る練習をしていて何て不良なんだと勝手に嫌っていました。



 母方の祖父は関東一円を仕事で移動する時はトライアンフに乗っていたそうです。イギリスのオートバイ、トライアンフです。


 明治27年生まれで江戸川乱歩と同じ歳ですが、記念写真を撮る時は山高帽をかぶって汚れていない破けていない、そでも丈も寸法の合っているチャップリンみたいな恰好です。写真で見たことがあります。もっと恰幅はいいですけど。


 オートバイに乗る時は黒の皮ジャンだったらしいですけど。祖父が夜田舎道を走っていると同じ道をグルグル走ってしまうことがたびたびあったそうです。
 キツネか狸に化かされたんだろうと言ってました。それに白装束の女人とすれ違うこともあったそうですw女狐ですかね。


 「おっかなくてふり返られなかった」と言う祖父。おそらく商談先でお酒をすすめられて断れずほろ酔いだったのでしょう。戦前戦後の話なのであしからず。