昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

向島 流しのバンド

 77年ですから昭和52年ですか。向島の流しのバンドをやりました。流しというと二人連れで一人が歌うイメージがありますが、そこは違いました。
 要するにカラオケの代わりです。以前も書いたかもしれませんが、料亭のお客さんの歌の伴奏をしにデリバリー要請に応えて行くのです。2~4人ぐらいのユニットが多いです。


 Mプロの事務所のフロアで団塊以上の年代の人たち=名うての先輩たちがフルアコギターを抱えて待機していました。彼らは壁ぎわにズラッと並んで腰かけていました。
 ぼくら若手はいわばヘルプスタッフです。アンプにつながっていない自前のエレキギターをチャカチャカ鳴らして、お呼びがかかるのを待っていました。中堅どころの一番若いベーシスト(エレキベース)はぼくと歳はほとんど変わらなかったです。
 一番若いヘルプは昭和37年生まれの子でした。若い子はほとんどロック志向で長髪の子が多かったです。ロック志向の子の中には演歌っぽいリズムギターが弾けなくて苦労している子もいました。ぼくより2歳ぐらい若い子が偉そうにピッキングのことを講釈していました。その子だって言うほど巧くはないのです。


 料亭のお座敷と言ってもステージとしては狭いです。だいたいぼくら流しバンドは廊下につっ立って演奏します。先輩がギブソンのフルアコで圧倒的な巧さで伴奏します。ぼくはグレコのテレキャスでハイポジションコードを弾きます。これについてはオーディションで最低限の条件にありました。瞬時に調が変わってもハイポジションで対応しなければなりません。
 お客のリクエストでその場で伴奏しますから、曲の譜面も何もなくお客さんの音程に合わせて瞬時に調性を合わせていきます。
 ちょうどそのころ週刊新潮か何かで取材されました。当時にあっても流しというのは珍しい存在だったのでしょうね。
 一度だけ赤坂の一流料亭Cに要請があって出かけたことがあります。

下北沢 ロフト

 下北沢ロフトは昭和50年の12月にオープンしました。
 オープン初めの三日間はティンパン・アレーが出演したということですが、ぼくも観に行って記憶にあるのは山岸潤史です。大勢出る中に山岸潤史も含まれていたのかもしれません。


 あと細野晴臣は覚えています。カントリー風のシャツを着てジーパンにサスペンダーをして出てきました。バッキングはムーンライダースでしたか。バイオリンもいたのでそうかもしれません。
 でも途中で店の外に出てしまいました。どういう事情で出てしまったのか思い出せません。


 数週間後、銀座四丁目のビル(確か三愛)であがた森魚のアルバム発売記念の座談会にゲストでプロデューサーの細野さんも来ていまして、ぼくは後輩に借りたミノルタの一眼レフと105ミリのレンズでバシャバシャ撮りました。


 現像して四つ切ぐらいの写真に引き伸ばし、西麻布の事務所に送りました。事務所内に写真は貼られていると当時チョコレート・パパズ・バンド(キャラメル・ママのフォロワー)の知り合いが教えてくれました。


 細野さんが着ていたカントリーシャツに似たものをあちこちの店で探しましたが、高くて手が出ません。サスペンダーは買いました。茶色い皮のです。
 ジーパンはカーペンターズジーンズを買って脱色しました。それに染色剤を買ってきて大鍋で煮て染色を試みましたが、一度脱色してますからうまく染色できず、土留め色になってしまいました。


 ひどい色なので履くのをやめたのですが、妹が面白がって履いて下北の街を歩いたそうです。みんなが振り返ると愉快そうにしていました。

泉谷しげる 西岡たかし キャラメル・ママ

 思い出しました。昭和48年のクリスマス(検索したら出てきました)に泉谷しげる、西岡たかし、キャラメル・ママのジョイントコンサートが新宿厚生年金で行われていましたね。これも実際出かけていきました。当時の茶色いポスターがまだ家のどこかにあります。
 西岡たかしの記憶は全く抜け落ちていて、さっき検索するまで忘却の彼方にありました。西岡たかしは見ていません。


 実を言うと泉谷しげるも見なかったのです。キャラメルだけ見て休憩が入りそのまま帰ってきてしまいました。でも前売り600円、当日700円って安すぎませんか?w


 キャラメル・ママの記憶は鈴木茂の歌と細野の歌です。シンガーズスリーですか、彼女らも歌ったみたいですが、全然記憶にないです。
 林立夫のドラムは手数は多いけれどバスドラのノリが無く、松本隆のような技術的うんぬん以上のバスドラのノリとかスネアのちょっとしたニュアンスというものが林には欠けているような気がするのです。


 後年気になっていたのは全然関係ないと思っていた泉谷しげるとキャラメル・ママ、もしかしてあの日共演していたのかなぁと時々思い出しては悔いていました。ですけど、ほぼ無かったと言えますね。西岡たかしも出ていてフォークをやるのに、キャラメルがはっぴいえんどみたいにバックをやるわけがないと思ったりします。それもさっき検索して確信しました。


 当時は関西フォークにあまり関心がなかったです。五つの赤い風船のCDを聴いて感動したのはほんの5、6年前のことです。

キャラメル・ママ ティンパン・アレー

 昭和49年か50年に小坂忠のコンサートに出かけました。千駄ヶ谷の日本青年館で夕方から並んで入ったのを覚えています。


 外で待っている間、館内でリハーサルをやっている音が聴こえました。声の主は吉田美奈子です。ピアノの弾き語りです。
 曲は「ベルベットイースター」。荒井由実の歌を吉田美奈子が歌っていて、しかも当日のプログラムには含まれていません。


 ちょうどキャラメル・ママからティンパン・アレーに名前が変わるころだったかもしれないです。
 キャラメルも仲が今イチのころ、解散してもどうせスタジオで顔を合わすのだから、発展的にティンパン・アレーという大きな枠にして気まずくならないようにした、ということらしいです。


 小坂忠はボーカルですが、ぼくとしてはやはりキャラメル・ママの活動が気になったので足を運んだのです。


 矢野顕子がまだ矢野誠と結婚する前だったらしく鈴木晶子の名前で出ていました。髪の長いちょっと暗めの子がピアノに向かって地味にいましたが、その子が鈴木晶子でした。


 プログラムは小坂忠のアルバム「ほうろう」を中心に演奏したと思います。鈴木茂の「氷雨月のスケッチ」も歌ったと思います。


 全体としてファンキーなサウンドでした。会場内の音響は詰まりぎみで伸びやかではなかったですね。林立夫のドラムの音が今イチでした。

エレキ・ギター

 エレキ・ギターを買ったのは74年ごろでしたから昭和49年です。ずいぶん遅くもう20歳になっていましたね。


 下北沢南口に「いさみや」という小規模の家電屋さんがあり、その2階でグレコのテレキャスター・モデルを買いました。定価28000円で2割引きの22400円だったと思います。


 グレコのストラトキャスター・モデルもありましたが、3万を超える値段で手が出ず、テレキャスに甘んじました。先輩になぜストラトを買わなかったと問われましたが、高いからとしか答えられませんでした。


 確かにストラトのほうが音色が5段階選べますから、重宝だったのですが仕方ありません。


 当時バイトもしていたと思います。高校時代も夏休みや春休みなど叔父の会社の倉庫係とかバイトしていました。何とか工面できたはずです。


 結局そのテレキャス以外にエレキギターは買っていません。ストラトにしとけばもう少し用途があったのにと思うところはあります。


 ですが、向島の流しのバンドのときはテレキャスを使いました。アマチュアのバンドのときは使いませんでした。



 バンドではベースでしたから、エレキベースなら御茶ノ水か駿河台下あたりで買いました。昭和53年ごろだと思います。ジョーディーのフレットレス・プレジションベースです。定価64000円ぐらいを48000円で買いました。