昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

ホットケーキ ソフトクリーム

 今ホットケーキがブームなんですね。若いパンケーキ世代からも支持されているそうです。
 我々50代60代のホットケーキは子どものころのごちそうだったと思います。50代前半の人はホットケーキ用の小麦粉を買って自分んちで作って食べる人も多かったと思います。ただ60前後の人はデパートの食堂で食べた印象が強いのではないでしょうか。


 昭和30年代に渋谷の東横や池袋の西武、銀座の松屋などに出かけたときはホットケーキかソフトクリームを注文していました。昼食を食べた後だとおやつにホットケーキぐらいがちょうどいいです。お腹の減り具合で二枚あるうち半分とか一枚を母に分けていたかもしれないです。シンプルにバターを塗ってメープルシロップをかけただけで芳醇な香りとうま味が口の中に広がりました。


 ソフトクリームをなめるときに叔母がカメラを手にしていたので、大げさなジェスチャーで食べたことがあります。シャッターチャンスをうまく捕えた写真が残っています。現代は皆スマホで食べ物を撮りますが、叔母はカメラが趣味だったのでぼくをモデル代わりに撮りまくっていました。


 数年前ですが、ある日の午後急にホットケーキが食べたくなって、それが神保町の東の小川町だったので近くの「ルノアール」に飛び込みました。シンプルな味を堪能し、ホッとしました。(ダジャレではなく)

出生届と婚姻届け

 大正生まれの両親はぼくが生まれてから夫婦の籍を入れました。現代では出来婚は良くないイメージが強いですが、ぼくが生まれたころは違う意味でそうしていたのではないでしょうか。子どもが生まれて無事に育つかどうかある期間見計らって籍を入れる慣習みたいなことがあったんではないかと思うんです。
 実際ぼくが生まれて一週間後に区役所に出生届と婚姻届けを同時に届けています。お七夜という言葉にもあるように一週間ぐらい赤ん坊の具合を見たほうがいいんでしょう。


 それとこれは昨今は差しさわりのある議論かもしれませんが、お嫁さんが子どもを産むかどうか、これもその家族にとっては重要な事柄だった時代です。子どもが生まれず、まして昔は舅姑がいるところへ嫁ぐことも多かったわけですから、夫婦関係もしくは嫁姑関係がうまくいくか判りません。万が一うまくいかない場合出戻りもあり得る、その時は籍を汚さず出戻ることが出来ます。そしてまた縁のありそうなところを探すこともできます。
 そういうお嫁さんへの配慮も含まれていたのではないかと思ったりするのです。もしそうだとしたら、何でもかんでも古い風習はダメだと言いきれないのではないでしょうか。
 そうは言っても現代は子どもを産めるかどうか、よりも結婚できるかどうか、いや結婚すべきか否かというふうに議論の焦点が移っている時代です。ある程度少子化が進むのは事実でしょう。少子化やむなしの議論と少子化むしろ是という人もいて、ぼくらの世代の想像を超えた世の中になるんだなと思います。

赤坂の町名

 ひさしぶりに町名です。w
 高橋是清公園は赤坂7丁目にあります。隣接してカナダ大使館もあります。カナダ大使館の路地を入っていくと昔細川さまの別邸がありました。前に高橋公園の路地と書いたかもしれませんが、カナダ大使館の路地でした。
 古い地図を見ますと、昭和7年の地図に細川邸とあります。高橋邸もあります。さらに大正10年の地図には細川別邸とあります。高橋邸の他に渡邊邸、青山邸、赤星邸、竹内邸もあります。明治29年の地図は住宅の表示がなく公共機関しかわかりません。


 母方の祖母が死ぬ直前にぽつりと言った赤坂の細川さまのお屋敷というのは別邸のことでしょう。そこに大正時代女官として居たということです。まんざら嘘ではなさそうです。祖母は赤坂の地理にそんなに明るくないはずなのにピンポイントで示したということですから、かなり正当性があるということでは?
 高橋邸は赤坂表町にありました。あと渡邊、青山邸も同じです。後にカナダ大使館になりました。赤星邸は赤坂台町(臺町)です。赤星邸は後にシャム大使館になりました。この辺一帯は赤坂7丁目になりました。
 細川別邸と竹内邸は赤坂新坂町にありまして、ここは赤坂8丁目です。
 新坂町の隣り、道を挟んで青山南町になりますが、大正10年と昭和7年の地図には麻布聯隊第一師団司令部がありました。さらに聖路加支院がありました。ここはすでに「乃木坂」駅付近です。向かいは乃木会館があります。乃木坂を挟んで並びに昔山脇高等女学校がありました(大正10年)。後年赤坂丹後町に移転しましたね。
 TBSの敷地は大正10年と昭和7年の地図では近衛歩兵三聯隊でした(赤坂一ツ木町)。


国立競技場 絵画館 ハリマオ

 国立競技場はすでに解体されてしまったんですね。昭和39年のオリンピックのときは学校から歩いて行きました。あそこの住所は新宿区霞岳町っていうんです。案外知られてないんじゃないでしょうか。青山通りから行けるし「外苑前」駅からも歩けます。だから渋谷区と思われがちですが。最近は「国立競技場前」という駅もできたようですね。ぼくも一度ぐらい利用しました。
 隣りに絵画館があります。あそこも新宿区霞岳町です。外苑の並木道ありますね。よくロケなどで使われるところです。青山通りからも並木道のまっすぐ先に絵画館の建物が見えますよね。


 昭和35年に「怪傑ハリマオ」が放映されました。ジャカルタやマレー半島が舞台で大日本帝国陸軍のために活躍するハリマオの物語です。ハリマオとはマレー語で「マレーの虎」のことです。実際にジャカルタやマレー半島でロケする資金は無いので、外苑の絵画館を外国の大使館か公使館に見立ててハリマオの乱闘シーンが撮影されました。絵画館の建物は確かに外国みたいな雰囲気ですね。ハリマオがターバンとか変わった帽子を被って黒いサングラスをすると完全に外国人という感じです。実際モデルになった人は日本人のようです。

巴里の屋根の下~8ミリ映画

 昭和45年の春ごろから冬ぐらいまで仮の住まいで暮らしました。環七沿いのK写真館の建物そのまま借りたのです。写真館ですから洋館じみた外観は昭和初期の小さめのビルヂングです。だいぶ年季が入っていてネズミが出るほどだったのですが、祖母や両親に言われるままぼくも妹も仕方なく住んだのです。


 家庭の事情で、仮の住まいから徒歩10分ぐらいの住宅街に新築の家を建ててそこが完成するまで写真館に住まなければなりません。おそらくすでに築30年は経っていたと思います。

「巴里の屋根の下」Sous les toits de Paris(1930仏)



 ちがうクラスの子Uと帰り道の方向は同じでしたので、遊びに行っていい?と言われて途中まで行ったところで「今日はやめとくよ」と断ったことがあります。他人に見られたくないほどみじめな仮の住まいでした。


 いつまでこの隠れ家の暮らしが続くのかと侘しい気持ちになりました。昼夜を問わず環七の車の騒音が寝室を直撃します。写真館ですからスタジオみたいなところがあってそこにはテーブルを置いて妹と卓球をしたりしました。


 洋館仕立ての階段を上るとぼくの寝室がありそこが2階と3階の中間にあたります。道路と反対側にベランダがあるんですが、コの字型に建物がなっていますからベランダから2階の屋根が見えます。もっと向こうに煙突が建っています。部屋の壁も廊下の壁も安っぽいペンキが塗られています。


 それがまるで「巴里の屋根の下」の世界みたいでした。見方を変えればパリのアパルトマンに住んでいるような錯覚に陥ります。今でも内側の窓から見えた「巴里の屋根の下」を思い出すことがあります。


 ぼくは映画研究部に入部したからという理由で8ミリカメラと映写機を買ってもらいました。フジの「私にも写せます」(扇千景)にズームが付いたタイプです。ちょうどスタジオがあるので写真館の息子にぼくと妹を撮ってもらいました。その映画には一コマずつ絵を描き足してアニメも作りました。それと三島由紀夫の自決事件も11月に起こりましたので、新居に移ってからアニメ仕立てで撮り足しました。