昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

小林トシ子

 「渡り鳥いつ帰る」で娼婦役の桂木洋子は毒薬をあおって死んでしまいます。こんな悲惨な役柄ですが、見た目は気品のあるお嬢さん的なアイドルのような容貌ですね。
 昭和24年の松竹映画「破れ太鼓」では桂木洋子は小林トシ子と姉妹役でした。実際は小林トシ子より2歳上の昭和5年生まれとなっていますが、小林トシ子(昭和7年生まれ)が姉役です。この二人誕生日は同じです。
 小林トシ子は勅使河原宏と、桂木洋子は黛敏郎と結婚していますね。「破れ太鼓」では小林トシ子が宇野重吉に魅かれ滝沢修と東山千栄子の熟年夫婦のあり方に魅かれます。確かに桂木洋子とはタイプが違うのかもしれません。
 昭和27年「カルメン純情す」でオープンカーが赤坂見附の交差点を横切ります。その時に高峰秀子と同乗しているのはもちろん小林トシ子です。若原雅夫はパリ帰りの芸術家ということですが、岡本太郎を髣髴とさせますが、勅使河原宏も芸術家と言われれば芸術家ですね。

昭和の懐かしい邦画

 「渡り鳥いつ帰る」東京映画(昭和30年)の冒頭の隅田川と思しき風景は東宝「流れる」(昭和31年)の冒頭にも使われているような気がします。
 監督は久松静児と成瀬己喜男で違いますが撮影が玉井正夫で同じです。


 大映「赤線地帯」(昭和31年)に出てくる娼館というか、サロンも「渡り鳥いつ帰る」のサロン藤村と外壁のタイルの感じや入口の感じが似ています。
 大映のほうは溝口健二監督、撮影宮川一夫です。このあたりは邦画マニアの方どうか確認してください。間違いならばご指摘ください。


 あのころの映画はこういうものが多いですね。
 日活「洲崎パラダイス赤信号」川島雄三監督(昭和31年)には「渡り鳥いつ帰る」に出てきたダメ男風の俳優が同じ雰囲気で出てきます。


 この俳優の風貌はちょっと父に似ています。この俳優ほど悲壮感はないですが、細面で鼻筋が通って女性にモテそうなタイプです。

「渡り鳥いつ帰る」

 「渡り鳥いつ帰る」という昭和30年の映画には鳩の街というのが出てきます。まだそこへ行ったことがありません。ただ向島百花園には二度行ったので近いところには行ったと思います。
 荷風のいう向島は料亭街の向島ではなく寺島町の玉ノ井のことを指すと思われます。90年代に東武線に乗って曳舟の次の駅東向島で降りて向島百花園で楽しんだ後駅近くの小学校校庭で催されていた盆踊りを見た時昭和の昔に戻ったようで感動したことを覚えています。
 小学生が懸命に太鼓を叩いている光景は失われたというより元々持ち合わせていなかった地域愛を感じました。自分にはこういう子ども時代の思い出はないと痛感しました。辛うじてあるのは台町の真ん前の空き地で行われた盆踊り大会の櫓で太鼓を叩いたこと、この年には世田谷に引っ越してしまいます。
 鳩の街の店主森繁と娼婦淡路恵子は寺島一丁目というバス停から上野広小路行のバスに飛び乗って駒形どぜうで食事するシーンがあります。昭和30年の映画で昭和27年が舞台ですから、まだ売春防止法が施行されていない時代です。おでん屋の店主夫婦とすれ違います。
 森繁は淡路にフラれ堀切橋から転落、娼婦桂木洋子もお金の行き違いで自殺します。この二人は偶然ではあるものの心中として扱われます。桂木洋子は黛敏郎と結婚した女優です。桂木にしても高峰秀子にしても久慈あさみにしても娼婦役にはあまりに隔てを感じます。
 時代はだいぶ違いますが、昭和の初め祖母も駒形どぜうの裏で炭店を営んでいたことを思い出しました。

父は草食系?

 父は女好きでしたが自分からはモーションをかけない草食系でした。女好きで草食系なんて正確な表現ではないかもしれませんが、どうやら女性のほうから誘うことが多かったようです。
 家庭の事情で学校はあまりやれませんでしたが、ロシア文学やフランス文学を好み、映画好きでした。子どものころからあちこち転々と引き取られ苦労しました。戦争も内地ですが一応行きました。戦後はK会館や軽井沢の有名なMホテルで働いたり保険の外交をやったり、外見は明かるそうに見えないものの、意外に社交的な職業をこなしていたせいか、女性にも人当りは良かったのでしょう。
 どういう女性たちとつきあっていたか知る由もないですが、結婚する前の戦中戦後の10年ぐらいで8人とつきあったと言うのです。想像ですが、今でいうサービス業や下働きの人が多かったのではと思います。その中でも知的なロマンチックな雰囲気の父に魅かれる女性はけっこういたのでしょう。
 父にも失敗はありました。昭和30年代だと思いますが、渋谷の今でいうセンター街のあたりに食堂がありまして、そこの3階で女性を斡旋していたようなのです。これはけっこう有名な話だった可能性が高く、父も周辺から聞いたのだと思います。ですが、あれだけはやめとけと止める知り合いもいて、病気をうつされるから、と。父は興味本位で行ってみました。見事に病気をうつされました。そのことでだいぶ懲りたようです。
 何だか全然草食系な話ではありませんが、後期高齢者ならご存知の方がけっこういると思われます。

父がポツリと言ったこと

 父の浮気相手Tというのは洋装学校の講師で自立していました。ぼくがもしその女性に引き取られたらどんな人生だったろう?と何度か考えたことがあります。
 母より4歳ほど若く、カルチャー系の講師という身分で今でいう肉食系だったと思います。父が魅かれたのは、ぼくの感じでは岩崎良美似だったからでは?と思うのです。なぜかと言うと、70年代岩崎良美がデビューしたころテレビに出てくると、父がポツリと岩崎良美はいいなぁ、と言ったからです。
 ただ、つきあうきっかけになったであろうモーションはあちらからだったでしょう。
 それはそうですが、ぼくにとって少なくとも母よりは子どもの将来を考えられる人だったのではと思ったりします。
 父はしょうがないです。生い立ちが生い立ちですから。母は見栄っ張りですが、先のことを全然考えられない人でした。
 Tは上昇志向もあり手に職を持った女性だったのです。
 ぼくが一番尊敬しているのは祖母です。明治生まれで離婚を二度経験し、なおかつ職業を持ち戦前戦後の経済活動は男勝りでした。金の亡者では決してありません。教養はありました。
 祖母が亡くなったときに思ったのはあの世とメールのやりとりができないものか、と。魂だけ宇宙のどこかで生存していてメッセージのやりとりができれば寂しくはない、と思ったものです。オカルトや宗教の話をしているのではありません。