昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

コロンビアの坂

 かつてコロンビア通りと呼ばれていた通り、コロンビアが移転した現在は何と呼ばれているのでしょう?

 タクシーに乗ってコロンビア通りを通ってください、と言ったら黙ってそこへ向かうか、もうコロンビアは無いですよ、とか言われるんでしょうか。


 マイカーやタクシーの抜け道として使う人のほうが多いのではないでしょうか。


 実はかつてのコロンビア通りからコロンビアの建物の入口があった坂があるんです。
 いや、あれですよ、円通寺の坂じゃないですよ。円通寺の坂より薬研坂に近いほうにもっと狭い路地があって、それがコロンビアの坂です。丹後町です。


 円通寺の坂の円通寺は一ツ木町だったんですね。テアトルボウリングがあったところは丹後町でした。


 コロンビアの坂を下りていくと薬研坂の谷から入る路地と合流します。Y酒店とかキムラヤパン屋などを過ぎて、コロンビアの坂下に合流します。


 そこで昭和41年か42年ごろ、風鈴屋さんを見かけました。日光が差し込んで風鈴がキラキラ輝いていました。
 昔と言えば昔ですけど、ぎりぎり昭和40年代に屋台というか竿を担いだ風鈴屋さんが存在したことが驚きでした。竿を担いでいたのでもちろん移動式です。

スタート35

 昭和29年ごろ、母方の叔母は中学生でした。叔母は母方の祖母に連れられて赤坂のうちに遊びにくる時にカメラを持ってきていました。赤ん坊のぼくを祖母が抱っこして東宮御所の前で記念写真を撮りました。
 その写真を見るとどうやらスタート35というカメラで撮ったようなのです。ボルタフィルムと言いましたか?135mmサイズのフィルムでも裏紙が付いていて格調があります。記憶には無いのですが、wikipediaにはそうありました。
 幼いころスタート35らしきカメラは触った覚えがあります。叔母は短大に通うようになってもカメラを持ってうちに遊びに来ました。スタート35の写りは独特の味があって、トイカメラのような味がありつつ、画質もちゃんと高画質なのです。
 母方の実家から農機具の展示会に招待されて遊びに行った時なんかも、叔母はスタート35でぼくを撮っていました。叔母は渋谷の東横デパートにもよく連れていってくれました。食堂でぼくは肉団子、叔母はラーメンなんかを注文していたと思います。肉団子はラーメンの2倍ぐらいの値段だったと想像できます。子どもですから値段のことは判りません。食べられる量が肉団子ぐらいしか選べないのです。叔母と会うと未だに「肉が好きだったね」と言われます。

「ぼくの伯父さん」

 VHSのビデオが売られはじめたのは80年代後半だったと思うのです。映画「ぼくの伯父さん」をそのころ見て映画は初めて見たのですが、バックでかかっている音楽は聴き覚えがありました。懐かしくてサントラのCDも買いました。

Jacques Tati Soundtrack Music from 'Mon Oncle'



 映画は1958年とあります。日本でも公開されたそうですが、1959年か1960年、つまり昭和34~35年ごろ町でかかっていたのを何となく覚えています。子どもながらに印象的なメロディと軽快なリズムが耳に残りました。



 まだあの頃は渋谷を歩いても銀座を歩いてもああいうシャレたモダンな音楽がかかっていたように思います。デパートも憩いの場所として捉えていたのではないでしょうか。


 映画の進行はほんわかしたテンポですね。「ぼくの伯父さん」の「ぼく」の自宅は電化製品の最先端が装備され1958年とは思えないようなものが出てきます。多少そういう機械文明を皮肉った描写もありますが、ぼくが好きなのはあの家の庭です。人工的なんですが、アート的で噴水があったり、とにかくモダンです。


 あの庭、というか門扉からガレージの横の玄関へのアプローチを取り囲む設計なんですが、あれ全体の雰囲気が旧草月会館の野外スペースを想い出すのです。

赤坂「からす亭」を真似て

 4歳ぐらいの時です。表町のうちに親戚の人が遊びに来ました。その時に銀紙に包んだ料理を出しました。ぼくは思わず「こんなの初めて!」と言いました。



 二階に住んでいた地下鉄総裁の二号さんのYさんが赤坂「からす亭」から出前をよく頼んでいて、うちにも分けるつもりで多めに注文していたと思うのですが、銀紙に包まれたハイカラな料理をおすそ分けしてもらっていたのです。だから銀紙に包まれた料理は高級なんだと憧れていたのです。

 それが銀紙に包まれた料理が出てきたわけですから、感激して「こんなの初めて」と言ったのです。料理は母が体裁を繕ったのか多少見栄を張ったのでしょう、手作りの料理をわざわざ銀紙で包んだのです。



 母は恥をかかされた気分だったのでしょう。親戚が帰った後、ぼくを風呂場に連れていってお尻を何度も叩きました。幼いぼくには叩かれる意味が分かりませんでした。



料亭回り

 祖母は信用金庫に勤めていました。新規契約と集金で赤坂じゅうを回って歩いていたと聞いています。商店、料理屋、料亭を中心に巡っていたようです。
 料亭Cの大女将Mさんは稀代の政治家Tと引き揚げてきた、と祖母から聞きました。ただこれは確かな話かどうか疑問が残ります。
 Tの妾Sの娘さんが書いた本によると、Tは兵役で負傷して戦時中帰国した、とあります。飯田橋で新事業を始め神楽坂の芸者を妾にしたそうです。これは既成事実でしょうね。この芸者さんはSさんとは別人です。神楽坂の近くのマンションにも表札が数年前まで出ていました。引き揚げてくる時にMさんも一緒だったかどうかまでは判りません。
 もっともTは赤坂の料亭Cにも足繁く通っていたようですから、懇意ではあったのでしょう。Cの大女将Mさんよりも女将Mさんのほうが先に亡くなりました。
 祖母が料亭Cに行くと、どうぞどうぞと食べ物を出されます。「今〇〇さんで蕎麦をいただいて来たのでお腹いっぱい」と言っても聞いてくれません。いくら健啖家の祖母でも出された料理を目を白黒させながら食べたそうです。