昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

霞が関の卓球場

 K中学に上がったばかりのころ、霞が関のどこか目立たない場所で卓球を楽しむことがありました。もしかしたら役所の職員さんが日ごろ楽しむ卓球場だったのかもしれません。
 当時のメンバーは父親の仕事の関係で霞が関周辺の官舎に住んでいる子が多かったはずです。Tクン、Nクン、Mクンの名前は思い出します。ただ、永田町に住んでいたハッサンやTクン、赤坂のYクン、Tクンは加わっていなかったはずです。もしかしたら永田町住まいのSクンやMクンはいたかもしれないです。
 ぼくは赤坂でしたが、自転車ならそう遠くはありません。放課後いったん家に帰った後でも十分間に合いました。もっとも今その場所を教えてくれと言われても思い出せません。
 前述の永田町住まいのMクンは幼稚園で一緒でしたが、トイレでころんで血を流していたのが、55年経っても印象に残っています。

霞が関周辺

 以前、小学校時代の初恋のひとのことを書いたと思います。彼女は校門を出るとぼくと反対方向に歩いて行きました。「国会議事堂前」駅を使っていたのかもしれません。丸の内線を利用していたのでしょう。でもそもそも彼女が生まれた家もずーっと歩いていけば行けます。「霞が関」駅で降りれば行けないこともないですが、雨でも降っていないかぎり小学生が歩けない距離ではありません。


 そんなところに住むところなどあるわけがない、と一般的には思われるでしょうが、住んでいた時期があるようです。年に一、二度メールのやりとりをしますので、今度確認してみます。
 考えてみれば議事堂周辺は60年安保以降は警備が為され、安心な通学路だったかもしれませんね。

赤坂丹後町のAさん

 赤坂丹後町にAさんは住んでいました。Aさんは長年政治家の運転手をしていました。娘さんは幼稚園でうちの妹と同級生でした。娘さんは美人さんで赤坂のスーパーの息子さんと結婚したと聞きました。


 Aさんはとても健康に気遣う人で、うちに来るとカルシウムの液体は胃にいいとか明日葉が身体にいいとか海外の洗剤も持ってきました。うちの母は肩こりがひどいのでAさんは肩たたきまでやってくれました。
 そのかわり晩ごはんをご馳走します。でもハンバーグのボリュームが大きすぎたのか幾分持て余し気味に見えました。胃が悪いのに無理して食べていたのかもしれません。


 うちの父が肺がんで入院したときにAさんは見舞いに来てくれましたが、うちの父ががんになったことがAさんにとってショックだったらしく、Aさん自身も検査しました。


 豈はからんやAさんもがんに冒されていることが判明し、父と同じ病院に即入院しました。父が63歳で亡くなるとAさんも追うように58歳で亡くなりました。そのとき健康食品なんて当てにならないと思いました。

浅草の小父さん ③

 浅草の小父さんは「駒形どぜう」の近くで幼少のころ過ごしたと聞きました。ぼくの祖母も昭和3年から7年にかけて近所に住んでいました。炭店を二番目の夫と営んでいました。ですから浅草の小父さんの幼少のころに祖母と道ですれ違っていただろうと思います。
 小父さんは昭和20年の3月10日の東京大空襲でご両親を失くしました。小父さんは南の島にいたそうです。5月ごろ一旦帰京し、ゆくえを探したそうです。ご両親は空襲に逃げ惑う中、大八車を引いて隅田川の付近を走っていくのを見たという情報は得られたものの、行方知れずのままになったそうです。隅田川の東に戦没者の慰霊碑がありますが、そういうところでしかお参りは出来ない現実があります。しかも相前後して長兄は戦死したわけですから小父さんは絶望の極致にいたわけです。自分だけ生き延びてもしょうがない、戦死したほうが気が楽だったとも言っていました。
 父方の親戚にも大正15年12月生まれの人がいます。ですが、その人は戦争に行きませんでした。このあたりの年齢は戦争に行くか否かが分かれるようです。同じ月生まれの浅草の小父さんは府立三中の途中で志願して予科練に入ったのです。優秀な人ほど出世が見込めると思い、志願する人も多かったのかもしれません。そのあたりのことはその世代でないとよく判りません。

浅草の小父さん ②

 浅草の小父さんはまさにゼロ戦に乗っていたのですが、当時はゼロ戦と言わず、零戦(れいせん)と呼ぶのが正式だったそうで、もっと正式には零式戦闘機だったと思います。
 小父さんの兄は大正11年生まれで府立一中から海軍兵学校、海軍に入隊、南の海で戦死したのですが、そのころ乗っていたのは二式というものだったそうです。二式大艇爆撃機もしくは二式水上索敵機だったと思われます。特攻に相応しくないような飛行機を使っていた可能性もあります。小父さんの兄は香川県の詫間飛行場から飛び立ったと聞きました。
 ぼくの知っている赤坂の老舗の旦那さんは旧制麻布中学から陸軍士官学校に進んだそうです。俳優の小沢昭一も旧制麻布中学から海軍兵学校に進み1年生の時に終戦を迎えたそうです。
 大正12年生まれで仙台二高から大学に進み下士官になった人も知っています。モラトリアム的に大学に進んだものの、終戦間近になって駆り出され若くして偵察機の上官になったので年上の部下に嫌がらせをされたそうです。