昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

昭和レトロ写真 ③

 バブルのころに買ったキャノネット、ジュニア判でキャノンレンズ40mmF2.8(昭和36年~)ですが、3500円でした。コニカの白黒フィルム、コニパンと言いましたか?ISO200を装填しまして南青山1丁目~3丁目を撮りました。トーンは豊かでした。


 パールⅠは愚かなことにネオパン400やT-MAX400など高感度フィルムを入れて撮ったため懐かしい感じが出ませんでした。
 これで青山とか西麻布とか撮りました。もしかしたらカビのための白いモヤを避けるつもりだったかもしれません。


 イコンタ69にはトライXやHP5(イルフォード)、ネオパン400などやはり高感度を使用しています。ピント合わせに自信がなかったと思われます。


 レチナⅢcにはイルフォードXP2、T-MAX100など入れて四ツ谷や青山で撮っていますが、写りがバラバラでした。この時点でもまだ気づきません。


 パールⅡにはXP2、アグファクロムなど入れて青山、神宮前あたりを撮りました。


 とにかく知識も技術も無いことを晒すようですが、まともな写真が撮れるわけはないです。真っ当にISO100のフィルムでそれなりの撮り方をすべきでした。


 学生時代は一眼レフ全盛のころで、と言ってもNikomatで、誰でも撮れるカメラでしたので、クラカメのように露出計を持ち歩いて撮影するにはスキルが無さ過ぎたようです。


 ピントを合わせるタイプのカメラならまだましで、ピントは目分量、露出を計測、絞りを合わせ、シャッタースピード、シャッターチャージと一台一台の操作を覚える、という点ではカメラの初心に帰って撮るだけで精一杯でした。

昭和レトロ写真 ②

 前回書いた、パールⅠを買った年は次々と4台も買っていました。

 手帳を読み返して知りました。全然忘れていましたが、1台3万円台~4万円台ですから驚くほどの散財ではありませんが、クラカメへの期待度は高かったということは判ります。


 パールⅠヘキサー75mmF4.5(1949年)の写りは質感がありトーンも良かったのですが、レンズにカビがあり仕上がった写真に白いモヤがかかっていました。
 レンズの修理をしてもらいましたが、にじみは完全には取れませんでした。だいぶ後になって売却しました。


 パールⅠから半月後にはツァイスイコンのイコンタ69クセナー105mmF4.5を買いました。1930年代と前回書きましたが、1929~1930年が製造のようです。


 後年買うテッサーレンズのものより好みの写りを得られます。これは未だに手元にあります。ちょっとヌメりのある懐かしさを感じる写真になります。


 6×9判ですからフィルムのコスパは低いですが、ここぞという時は使ってみたいカメラです。


 さらに半月後コダックのレチナⅢcクセノン50mmF2(1954年)を買いました。これは意外に好みとは違っていました。トーンはまあまあですが、輪郭が太く質感は今イチに感じました。


 1か月後パールⅡヘキサー75mmF3.5(1951年)を買いました。これは距離計連動です。


 パールⅠに比べてピント合わせは楽ですが、立体感がやや低くレンズの汚れが後になって見つかりました。これも後年売却しました。


 4台とも蛇腹カメラですが、偶然です。『みなと写真散歩』っぽい写真を撮りたい一心でした。

昭和レトロ写真 ①

 みなと図書館で最初に『写された港区 二』を買ってまず魅せられたのは昭和30年代を中心とする写真でした。


 多くは『みなと写真散歩』という写真ブックが下地になっています。ほぼ定点カメラのような感じで昭和50年代と比較して掲載されていますが、昭和30年代の写真のほうが断然魅力的です。


 どうやったら昭和30年代風に写真が撮れるのか試行錯誤しました。初めはバブル期にキャノネットを買って試してみました。思うようにいきません。


 次は小西六のパールⅠを買って試しました。蛇腹で6×4.5ですが、かなりいい映りです。ただレンズにカビが生えていて写真にも影響するようになり、そのころクラシックカメラブームが沸き上がっていたせいもあり、関係書物を買ったりして柄にもなく、中古カメラ店をハシゴするようになりました。


 パールⅠのレンズはヘキサーでF4.5でした。順番は忘れましたが、イコンタ6×9のクセナーレンズも銀座のカメラ店で買いましたが、すこぶるよく写りました。ただフィルムがもったいなかったです。
 パールⅡは京橋あたりにあったカメラ店で買いましたが、パールⅠに比べると大してよくなかったです。レンズはF3.5と明るめでしたが味がなかったです。


 その後数台試しましたが、ローライフレックススタンダードは操作性は悪いものの、写りは抜群でした。好みで言ったら一番かもしれません。ハーフトーンとかグラデーションがキレイでなおかつ昭和20~30年代風なのです。


 実際の製造はパールⅠが1949年で昭和24年、イコンタ69が1930年代、ローライフレックススタンダードも1930年代です。
 パールⅠの裏にはmade in occupied Japanと刻印されています。占領下の日本で製造ということになります。

青山 赤坂 イギリス音楽

 青山一丁目の交差点から六本木方面、外苑東通りですか、あそこの赤坂8丁目9丁目のあたりは独特の雰囲気があると思います。


 ベンジャミン・ブリテンのヴァイオリン協奏曲が似合います。都会の中のエキゾチックさを感じるのです。


 このエリアで夜になると、ブリテン・コネクションというピアノ曲選集があるのですが、いくつかの曲で雰囲気ぴったりのものがあります。


 レノックス・バークリーとかフランク・ブリッジとかブリテンの先輩もいてスティーヴンソンなどの後輩もありのアルバムです。


Anthony Goldstone - Benjamin Britten Night Piece: Notturno



 赤坂8丁目9丁目のマンションが林立するあたりで夜になると常夜灯の明るさが目立ち、マンションのコンクリートと中庭や建物の周りを囲んでいる緑が都会の安らぎを喚起させて、ブリテン・コネクションのピアノ曲にぴったりです。


 それと同じイギリスのウィリアム・ウォルトンのヴィオラ協奏曲も似た感覚があります。
 ウォルトンのヴァイオリン・ソナタは東宮御所内(もちろん入ったことはないです)に咲く可憐な花々を連想します。
 弦楽四重奏曲は平河町から赤坂見附の立体交差の風景を連想させてくれます。


 これらはたぶん容易に理解されない感覚だと思いますが、92年のバルセロナオリンピックのころにイギリスの近代・現代音楽に触れ、そう感じるようになりました。

青山のピーコック

 話はさかのぼりますが、表町のころ、母に連れられて青山のピーコックまで買物に行きました。
 表町の停留所で都電を待って乗るよりも、青山一丁目まで歩いていけば後は外苑前までのんびり歩くだけです。


 父が慶応病院に入院していた時も、青山一丁目まで歩いて都電に乗って権田原を通過、信濃町まで通っていましたから、青山一丁目までは慣れっこになっていたのかもしれません。
 草月会館、高橋公園、カナダ大使館、郵便局、そうこうしていると青山一丁目の交差点です。現在は角にHONDAがありますね。


 とぼとぼ歩いても外苑前の駅を過ぎると青山通りと外苑西通りの交差点が見えてきてピーコックはすぐです。案外近いんです。
 向かいの東急ストアがそのころあったかどうか思い出せません。帰りも歩いてしまいました。母も時間的に余裕があったんだと思います。ぼくにとってはいい運動になったと思います。
 実はあんまり覚えてないので、そんなに苦痛ではなかったんだと思います。


 青山通りというと今やわざわざ車で通るほど景観がいいですが、当時はもっと狭く平凡な通りだったと思います。


 昭和10年の映画「二人妻 妻よバラのやうに」には青山通りかな?と思えるような風景が映りますが、こればっかりは確かめようがありません。