昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

「赤坂をどり」②

 次に芸者衆を挙げます。(第41回「赤坂をどり」)


 藤間流
 松子 由美江 以佐子 八重駒 育子 佐和子 香帆留 松巳 千代喜久 
 み重子 み紗乃 明佳 千葉奈(ちはな)


 西川流
 久子 志寿子 ぎん子 その也 留以子 夏世 津喜子 秀千江 玉千代
 久実子 八悦丸 華子 誠恵(まさえ) 金時 寿美花 兆治 彩加 暢恵
 裕子 さや香 由良子 ぼたん 康子


(以上敬称略)続いては鳴り物などを挙げます。

「赤坂をどり」①

 今年も3月21日(土)と22日(日)に第53回「赤坂をどり」が催されますね。去年一昨年と行きそびれました。最後に見たのはもう5年も前のことでしょうか。赤坂ACTシアターでも見ましたが、紀尾井ホールでも行われたことがあります。
 平成になってから「赤坂まつり」はあったんです。祭りの中で移動式の舞台の上で芸者衆の舞いや歌、笛、三味線、太鼓が鳴り響きました。


 テレビでも「赤坂をどり」は放送されていました。第41回「赤坂をどり」を録画していたので少し紹介しますね。「藤間流と西川流合同 艶姿花の賑い旅路・南と北」という演目で芸者衆はもちろん、奏風楽連中、囃子連中が一同に介します。
 仁村実津夫作詞 松原奏風作曲 福原百之助作調 藤間友章作舞 西川右近作舞
 藤間勘太郎指導補 西川鯉之凾指導補 後藤芳世美術 長谷川勘兵衛美術 相馬清恒照明
                                 (つづく)

大物政治家

 赤坂の芸者さんから祖母に相談を持ち掛けられたことがあります。大物政治家Tの妾になるべきか否か。その芸者さんは別の旦那さんの子どもを産んでいました。そこで祖母は諭したそうです。別の人の子どもがいながら妾をやるのは人の道に外れている。別れなさい、と。
 その芸者さんはボロボロ涙を流して泣いたそうです。大昔の話ですよ。Tさんには7人ぐらいの妾が存在したと言われていますから、順番的には三番手以下だったと思われます。
 一、二を争うのはTさんとかSさんですから。Sさんでさえ娘さんは認知されなかったのですから。まして連れ子がいる女性、それがどんなに美人で気立てが良くても無理なんじゃないでしょうか。

脱脂粉乳

 妹は小学1年生の半分ばかり赤坂のH小学校に通いました。後半は世田谷の小学校に転校したわけですが、それが昭和42年です。
 給食のことを訊くと赤坂では脱脂粉乳で世田谷では牛乳だったそうです。ちょっと不思議な感覚ですね。同じ年にですよ。確かに昭和42、3年が脱脂粉乳から牛乳に転換した年回りなんでしょうけど、どういうわけでしょう。
 そのころの世田谷は住宅街にまだ畑が残っていて自然な風景であったはずです。こじつければ赤坂はアメリカ大使館が近かったりしたからでしょうか。日米安保条約と給食には密接な関係があったとする説もあります。それか単純に脱脂粉乳の管理は難しく牛乳なら遠方でも運びやすい、という事情だったのかもしれません。
 栄養的なことはよく判りませんが、現代は白米も給食にあるそうです。昔はパンが給食の主食でした。白米ばかりだとビタミンB1が足りなくなって脚気になりやすい、と。このあたりは軍医だった森鷗外や脚気に悩まされた平将門に訊いてみるほかはありません。

永田町~赤坂

 永田町に家があったのは思い出せるだけで、Tクン、Sクン、Mクン、ハッサンがいます。


 Tクンの家は国会議事堂が見えるところでした。あの前の通りを行くと少し下り坂になって皇居の周りをマラソンしている内堀通り方面に行き当たります。そこにポツンと家がありました。


 Sクンちは家の敷地内の庭がこん森と植木があって家屋が隠れるぐらいに緑に囲まれていました。まるで世田谷かと思うぐらいにです。Sクンはどこかのプロデューサーになっていると噂で聞きました。Mクンは今海外で仕事をしているとのこと。ハッサンの家は東京メトロの駅になっています。日枝神社の近くです。


 赤坂台町の家の近くに白洲次郎の事務所ビルがあったのですが、近所に外科医院があり、そこはかなり繁盛しているようでした。かつてコロンビア通りと呼ばれただけあってコロンビアの歌手はこぞってそこに掛かったようです。