昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

新宿の名曲喫茶

 新宿に「マンションハウス」という喫茶店がありました。
 不動産屋みたいな野暮ったい名前ですが、一応名曲喫茶です。
 東口の二幸の並びの富士銀行の角を曲がってすぐの、ワシントン靴店のはす向かいに当たる場所にありました。ビルでいうと4階か5階ぐらいありましたか。一応洋館建てで中は薄暗く、でも客でわいわい賑わっている、談話のための名曲喫茶です。(らんぶるなどはだいぶ年が経ってから通いました)

 そこでサークルの人たちとよくお茶を飲みました。サークルと言っても思想、宗教、マルチなど一切関係ありません。純粋なコミュニティーサークルです。要は友だち作りやガールフレンド目的です。


 友人Oもそこで知り合ったのです。昭和48年ですから、学生運動もヒッピーもフーテンも影をひそめていました。新宿の凮月堂にも関係ない、一般青年の集いです。


 他のメンバーは学生I、看護学校の女性Yさん、保母を目指すMさん、美大女子学生Fさんでした。O、I、Yさん、Mさんがぼくより2、3歳上で、Fさんはぼくと同じぐらいでした。


 新宿西口の中央公園に別の用事で仲間と集まった際、Mさんが知らない男性とデートしているところに遭遇し、大慌てで公園内を駆け、逃げ帰ってきたのを覚えています。サークルの輪が壊れた瞬間でもありました。


 看護学校のYさんが参加している文化祭に呼ばれて、都内のとある場所にOとIとぼくとで出かけたことがあります。
 みんなで「遠い世界」を歌ったのが記憶に鮮明です。教室のボードに「遠い世界」の歌詞がマジックで書かれていて、それを見ながら歌うのです。


 ぼくより2歳お姉さんのYさんはやっぱり選ぶ歌が違うんだなと思いましたね。内心はかなり気恥ずかしかったです。
 そのころのぼくは吉田拓郎とかはっぴいえんどとかを聴いていましたから。

下北沢 ジャズ喫茶 (参考音源あり)

 昭和50年前後ですね。下北沢の五番街っていうんでしょうか。(ここは間違いでした。正しくは「一番街」です^^:)
 小田急線の駅に隣接したふみきり(手前は金子総本店)を渡って、驚くなかれそのころ高田ケンゾーのショップ(当時はブティックって言ってたかもしれないですが^^)が左側にありました。
 向かいは呉服屋さんで。五番街(これも間違いです。ワンダーランドというビルです。五番街というレコード屋は中にありました)というテナントビルもあったので(×五番街)という商店街ではないか、と。(勘違いすみません)


 さらに行くと右側に「シェルブール」というケーキ屋があったんです。
 その2階がジャズ喫茶でした。そこでチック・コリアの「クリスタル・サイレンス」とかキース・ジャレットの「ソロ・コンサート」とかかかってました。

Chick Corea:Crystal Silence

 店は明るいフロアで哲学書を手にしてどうこうではなく新しい感覚のジャズ喫茶でした。お喋りももちろんOKです。オーディオはちゃんとしたスピーカーでしたがメーカーは忘れました。
 あとはハービー・ハンコックのアコースティック時代のとかビル・エヴァンス、コルトレーンもかかったと思います。

Bill Evans - Waltz For Debby
 一番多く一緒に行ったのはKでした。Kはクラシックもジャズもロックも詳しかったです。1歳上のお兄さんがいたからでしょうか。K自体がぼくより1歳上でした。Kは東京の生まれですが長く兵庫県の芦屋で育ち、学生のころ神奈川に住んでいました。下北沢から一本で帰れるところに住んでいました。

街のオキテ

 年代はだいぶさかのぼりますけど、赤坂台町に引っ越した昭和38年ごろですね、町を取り仕切っているある方がどういう伝手でここに家を建てたのかと言ってきました。あまりくわしくは書けませんがお察しください。祖母はどうしたものかと東京都議会の役員Iさんに相談しました。
 Iさんが間に入ってうまく交渉してくれたので事なきを得ました。うちは一般の家を買って更地にして新築したのです。祖母の仕事関係やIさんの公的立場なども考慮してくれたようです。不動産屋さんの問題は子どもだったのでよくわかりません。前述の件でいくらか経費はかかったと思います。

名曲喫茶「ライオン」 ②

 「ライオン」には一人でも出かけました。トイレがハンパなくどぶ臭いんですw他所では嗅いだことのない譬え様のない匂いです。男性用トイレの壁は落書きで埋め尽くされていました。相合傘に名前が書いてあるのは定番です。あと時代を感じさせたのは、革〇連だとかセクト名と思われる名称とか〇〇参上とか、現在は消されているかもしれませんが、各々世代の違いは感じますが、青春の炎がたぎる断章がそこにはあります。

 2階席で江戸川乱歩シリーズを読みました。角川文庫は読破しました。照明は暗く文字が見えにくいです。でも集中力は出るんです。いわゆる幻想文学なんかを読むには人気のない洋館じみた雰囲気がぴったりでした。資格取得のための勉強などもしました。
 小腹が減ったときは、パン屋であらかじめ買っておいた菓子パンをウェイトレスの目を盗んでかじります。第一パンの菓子パンうまいんですよ。

8マン 再び ②

 赤坂の話題だけではネタが持たなくなって脱線つづきです^^:。ブログタイトルも少し幅を持たせるように変えました。(赤坂については数か月前の記事をお読みいただければ幸いです)

 以前8マンの話は書いたと思います。いつごろだったか自分で探すのが面倒なので重複するかもしれませんが、8マン憧れましたね。真似て描くんですけどなかなか難しいです。
 小学校のクラスメイトSクンは上手に肖像画を描いていました。Sクンはどこかのプロデューサーになったと聞きました。Kクンもうちに遊びにきて、8マンの構造図を正確に描きあげたものを見せられ内心参ったと思いました。それが小学3年生から4年生のころです。
 Kクンとは旺文社の『中一時代』の座談会にもいっしょに参加しました。昨今(当時)のマンガの評論座談です。謝礼でもらえるはずのボールペン、送られて来なかったですね。
 SクンとKクンの絵の巧さは漫画家になる夢も断念したぐらいです。ただ、そういう自分も大人になってアニメーターの仕事を数日間やったことがあります。
 4年生のころ、8マンの豪華本の読者ページに記事が載り、九州の子と文通しました。ぼくより1学年下の子でしたが、ぼくより大人びたレビューを書いていて、数年間文通しました。
 丸美屋ふりかけをシール目的で買って部屋のすりガラスにベタベタ貼りました。赤坂から引越しするとき惜しい気持ちでした。剥がせばグチャグチャになってしまうしガラス窓を持っていくわけにもいきません。
 数年前に50周年記念の復刻ふりかけを大人買いしてシールを改めて見たとき昔と変わらず懐かしかったです。