昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

名曲喫茶「ライオン」 ①

 渋谷の道玄坂を上って中腹あたりを右に曲がると坂を上る路地があります。さらにちょっと行ったところに名曲喫茶「ライオン」があります。大正の末期か昭和の初めにはもうあったそうですが、戦災で焼けて今の店舗は昭和25年ごろ建てられたそうです。
 祖母と父が昭和8年ごろ、道玄坂を少し下って「109」のはす向かいあたりに住んでいたと以前書きました。父からクラシックの話は聞きませんでしたから「ライオン」は知らないかもしれません。

 この「ライオン」も友人Oとよく行きました。一階席に腰かけることもありましたが、午後2時以降は二階席に陣取りました。縦長のスピーカーを二階席から多少見下ろす感じになります。二階は談話もできます。ルソーとかゴッホとかの話。音楽、映画の話をしました。彼は弦楽が好きでぼくはどちらかというとピアノの曲が好きでした。コーヒー一杯300円ぐらいだったかうろ覚えですが、ふつうの喫茶店より若干高めだと思います。
 往きは井の頭線の改札を出たところで待ち合わせたと思います。彼は184センチあったので目立ちます。井の頭線は二階が改札口でしたが、地上一階に立ち食いそばがあったので何度も食べた思い出があります。帰りは下北沢でぼくが降りて、彼は明大前まで乗ってのりかえていたんだと思います。

池袋 文芸地下 「ベニスに死す」

 友人Oとは映画も観に行きました。やはり昭和50年ごろです。
 池袋に文芸坐という名画座がありましたが、地下に文芸地下がありました。ここに「ベニスに死す」が掛かったので一緒に観に行きました。ですが、また観たいというのでつき合いで連日通うことになりました。それがいつの間にか60回に達したのです。ぼくは単につき合わされて観たのです。それでも二週間は通ったんだろうと思います。
 さすがに60回を超えたので次回からの誘いを断りました。彼は一人で通ったようです。おそらく100回ぐらいは観たんだと思います。
 ぼくも10回を越えたころからうつらうつらしながら観ていたと思います。そしてしばらくの間、マーラーのアダージェットはうんざりで聴きたくない時期がありました。
 彼と喫茶店で話すと「ベニスに死す」の脇役に注目してその人の演技だけを見ていたりもしていたと言うのです。まだ家庭用のビデオが無いころですから、彼にはそれしか方法はなかったと思います。まあ今だったらDVDをくりかえし観るんでしょうね。


 池袋の文芸坐は現在でもありますね。新しいビルになってますね。2度ぐらい成瀬己喜男だか高峰秀子特集のときに観に行ったことがあります。

カップ麺を食べながら夢を語る

 先日書いた友人Oと下北沢「アイリス」、幡ヶ谷「白亜館」とハシゴした後も喋り足りないときがありました。小腹が減ることもあって小田急線「東北沢」駅前の自動販売機を目指します。屋根付きの小屋みたいなプレハブに自販機が並んでいてベンチもありました。(昭和50年前後)
 夢を語りながら腹が減ったら100円玉を出してカップ麺を買います。カップ麺の蓋を開けて、自販機のお湯が出てくるところに置いてボタンを押します。お湯は別にお金が必要だったかそこまでは覚えていません。別添えの具はなかったかもしれません。
 家ではあまりカップ麺は食べませんでしたが、外で食べるカップ麺は格別おいしかったです。ゆっくり食べながら夢のつづきを語ります。


 話も尽きてあたりがうす暗くなると自販機の前で別れを告げ、各々帰途につきます。Oはそこから小田急線と垂直に交わる道路を北上し、井の頭通り沿いに帰っていたようです。ぼくは反対方向へ歩き下北沢の商店街を抜けて自宅へ向かいました。

 Oが言っていた「七色仮面」のロケを子どものころ時々見かけたというのは合点がいきます。「代々木上原」駅近く、井の頭通り沿いに回教の教会がありました。現在も新築して在りますね。そこの付近が実際「七色仮面」を見ると出てきます。

子持ち芸者

 生前祖母から聞いた話です。昭和28年5月ごろ、といったらだいぶ東京の街も復興し赤坂の花柳界も波に乗ってきたころだと思います。
 料亭Nによく出ていた芸者Tさんは子どもを産んだばかりでした。午前中いつも10時ぐらいから踊りの稽古があって行きます。座敷用の足袋をかかえて大家さんのところに寄って、二十円の足袋を十円で七足洗ってくれと頼みます。それから大家さんのところに置いてある赤ん坊を背負って稽古場へいき、午後はご贔屓の人と会っていました。
 名古屋から月に一度、男が訪ねてきますが、ちょうど他のお客と寝ていたので、座敷に出ているとか女中さんは嘘をつきました。ところがその日は三人目が訪ねてきたらしいです。生活の面倒を見てくれるジジイがいました。赤ん坊はいったい誰の子なんでしょう。
 花柳界ではよくある話ですが、祖母は息子夫婦の婚礼の時期だったのでやけに印象に残ってしまったようです。

ナショナル・キッドのことなど

 ナショナル・キッドの探偵役、小嶋一郎のことは記憶にありましたが、巽何某という人は記憶にありません。VHSビデオ化されたころレンタルして見て、ああこういう人もいたんだなという感じです。変なもので、キッドが空を飛んでいる時、ひざが微妙に曲がっているのが子ども心に引っかかっていました。
 それと志村妙子こと太地喜和子が出演していたことも後年知った次第です。東映のニューフェイスだった彼女は子ども向けドラマにも出ていたのですが、東映から文学座に移った経緯もあり、あまり東映時代を語らなかったようです。
 ナショナル・キッドで記憶に残っているのは宇宙船の中の雰囲気です。未来は宇宙船に乗って宇宙旅行もあるんだろうぐらいに思っていましたから、興味津々で見ました。それと宇宙人の手下たちのキャラが水商売のバーテンダーとかボーイさんみたいでそれがすごく印象的でした。
 志村妙子時代の太地は東映撮影所までバスか都電で通っていたとどこかで読みました。だとすると新宿区河田町の自宅から牛込柳町の停留所まで歩いていたと想像できます。外苑東通りはやっと拡幅工事の兆しが見えてきました。薬王寺町の通りを抜けて柳町でバスか都電に乗っていたことを想像するだけでちょっとわくわくします。
 牛込地域には近くに原町というところがあるんですが、その大久保通り沿いに昔銭湯がありました。その銭湯に付き人時代の志村けんが通っていました。太地喜和子は志村けんの大ファンでコント共演もあります。