年代は下りますが、昭和50年前後の喫茶店のことを書きます。地域は幡ヶ谷と下北沢です。あくまで普通の喫茶店です。
ジャズ喫茶のことは別に記す機会があるかもしれません。
幡ヶ谷に「白亜館」という喫茶店がありました。
甲州街道沿いのレンガ色のタイル張りのわりとちゃんとしたビルでした。中規模ですが重厚な喫茶店でした。
椅子やソファが大きめでゆったりとしていました。かかる音楽は「シバの女王」とか(正確なタイトル忘れました^^;)、レーモン・ルフェーブルやポール・モーリア、ダニエル・リカーリなど定番ばかりです。
ぼくは世田谷から幡ヶ谷まで電車で行くこともあったかもしれませんが、多くは下北沢から歩くことが多かったです。友人のOと行きました。Oは北沢在住で最寄り駅は京王線「笹塚」でした。
喫茶店で喋るのは絵のことやジャンジャックルソーの『社会契約論』です。Oは3歳上ですが団塊世代ではなく(彼の姉は団塊世代)、団塊世代の影響も関係なく独自にルソーとかを読んでいました。
「白亜館」で喋って帰るときには笹塚まで戻ってきて別れます。
ぼくは一人で笹塚から歩いて世田谷まで帰りました。
逆に「下北沢」駅で待ち合わせて駅北口の「アイリス」という喫茶店もよく利用しました。「白百合書店」の向かいが「アイリス」です。
「アイリス」は「白亜館」ほど重厚ではなくカフェテラス的な店でした。たいがい2階の席に座りました。
「アイリス」で喋り足りないときは笹塚~幡ヶ谷と歩いて「白亜館」まで行くのです。
お金を貯めてシベリア鉄道でヨーロッパまで行こうという話になり、アルバイトをしようということになったので、下北沢のケンタッキーフライドチキンの店の前まで行きますが、彼は決心がつきませんでした。
昭和40年ごろまで家族でデパートの食堂へ行くと席の確保がたいへんでした。そのころフォーク並びなどありません。少なくともフォーク並びの概念は平成になってからじゃないでしょうか。(もしかしたらデパートによって店員さんが誘導してたかもしれませんが)
漫才のネタにもなった、「ここもう少しで空きそうだよ」とか言ってましたねwじっとそばで待ってるんですよ。混んでるから食べてるほうだって腰も浮き気味だったでしょうが、ルールが無かったからこそゆずり合いももちろんありますし、早いもん勝ちの雰囲気もありました。
席に座ったはいいが、40分待って食べ物が来なかったときがありました。母もぼくも妹もお腹は減っていましたが、待ちきれず出てしまったことがあります。食券は買ってあったはずですから無駄になりましたが、そういうときはしょうがなかったです。
デパートの食堂もデパートによってシステムは違ったと思いますが、お好み食堂的に中華とか洋食をバラバラに注文してテーブルまで持ってきてくれる方式を利用していました。
20年ぐらい前でしょうか、友だちと紀伊国屋書店新宿店で本を選んでいた時、店内アナウンスで「角筈の〇〇さん~~~」と流れました。
角筈は「つのはず」と読みます。父は角筈で生まれました。新宿駅西口真向いにある明治安田生命の付近です。大正時代は文化住宅(バラック)が並んでいました。このあたり西新宿一丁目はほとんど角筈二丁目です。大正年間は淀橋町字角筈村だったはずです。
戦後まもないころまで角筈の地名はありました。アナウンスがあった当時はもちろん地名はないです。紀伊国屋新宿店の場所はちょうど境目です。戦後まもないころの地図では淀橋區角筈一丁目と四谷區の境目、つまり以前あった三越までは淀橋區で、伊勢丹と二三軒隣り(三越の真向い)は四谷區です。ややっこしいですよね。
角筈の由来も諸説ある中で、この辺一帯が突き出ているところが矢の筈に似ているからという一説もあります。
紀伊国屋書店の裏に画材文具フロアのビルがありますが、あのあたりにも祖父母と父は住んでいました。もちろん借家です。
紀伊国屋店内アナウンスで「角筈の~」と言ったのは店の隠語で店内部のことか画材文具フロアのことか西新宿に支社でもあったのかそれは判りません。ただその時懐かしい気分になりました。
そろばんを縦に構えて、器用な手さばきでチャカチャカ、リズムを取りながら「あなたのお名前なんてーの」の番組がありました、トニー谷司会の。あの人の息子が誘拐されたのが確か昭和29年だったと思います。当時は覚えてないというか知りませんでした。
有名なセリフ「レディース アンド ジェントルメン アンド おとっつぁん アンド おっかさん」これって映画でも使ってます。「家庭の事情」という映画があって「ネチョリンコンの巻」と「馬鹿じゃなかろかの巻」のどちらかです。これはDVDですが、バブルのころにテレビでも放映したのをVHSテープで録画しました。「家庭の事情」は昭和29年宝塚映画なんです。うちにもう1本DVDがあるはずなんですが、今は見つからないです。
誘拐のことを考えるとまさに家庭の事情ですね。映画に出てる場合かと現代だったら突っ込まれるかもしれないです。(子どもが誘拐されると思って映画に出る人はいないと思いますが)
ぼくらの年代だと昭和38年の吉〇ちゃん事件のほうが記憶に残っています。
映画館の看板描きをしていた小父さんは、浅草の映画館は顔パスで入っていたそうです。戦後の映画はほとんど見たと言っていました。浅草出身の小父さんが特攻隊の生き残りという話は以前書きました。
府立三中から上野の美術学校へ進んで絵描きになるつもりがまさかの特攻隊です。
看板描きをする前は横須賀の米軍基地で運転手などをして米兵から仕入れた洋もくなどを闇で売ったりしてたそうです。闇のたばこは祖母もしていた時期もあったそうで、珍しい話ではありません。
小父さんはwaterは「ワラ」と発音する、これは父も同じことを言っていました。
映画通の小父さんに邦画で見たいのは何か?と訊いたところ、即座に「浮雲」、「めし」と返事が返ってきました。恋愛ものはゴメンだよとぼくに告げました。ぼくはさっそく家にあった「浮雲」と「めし」のDVDを持っていって貸しました。