昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

お笑いドラマ番組のスターたち

 佐々十郎は「スチャラカ社員」には出ていないようですね。「やりくりアパート」と混同していました。
 「番頭はんと丁稚どん」には茶川一郎が出ていました。佐々十郎も茶川一郎も関西出身ではなく、東京生まれなんですね。
 「番頭はんと丁稚どん」の提供に「七ふく」がありましたが、提供のナレーションは若い女性の声で「しちうく」と言います。そう聞こえました。京都弁なのか大阪弁なのか「しちうく」なのです。

 「お笑い三人組」も見ていました。武智豊子のお筆婆さんが印象的です。武智豊子は下谷の生まれだそうです。女エノケンと呼ばれていたそうです。


 戦前の話ですが、母の実家の公民館に「エノケン来たる」の垂れ幕がかかったので、当日出かけたところ、「エノケソ」(えのけそ)だった、という笑い話があります。

 かしまし娘もてっきり関西生まれと思っていましたが、北海道と秋田なんですね。もっとも家族が旅回り一座なので巡業先で生まれたというだけのことです。


 父の従姉妹の雰囲気がまるでかしまし娘みたいなので親戚のような親しみを感じます。

 「デン助劇場」はけっこう長く放送していたような気がします。大宮デン助さん。へべれけに酔っぱらった演技が印象的です。

 ミヤコ蝶々も実は東京生まれだそうです。それも日本橋。これは意外でした。ミヤコ蝶々の「ええ子や。ええ子やなぁ」を聞くと目頭が熱くなります。あの間が天才的ですね。


 祖母を思い出すんです。鼻が大きくて女傑で。

思い出の関西系お笑いドラマ

  東京生まれの東京育ちですが、子どものころのテレビ番組というとけっこう関西系のものが多かったように思えます。
 正確なタイトルかどうか判りませんが「番頭はんと丁稚どん」なんかは毎回舞台の芝居でした。佐々十郎と大村崑がコンビで出てたような、藤山寛美が出ていたのは違ってましたか。芦屋雁ノ助や小雁なども出ていたでしょうか。
 佐々十郎は「スチャラカ社員」にも出ていた記憶があります。中田ダイマル・ラケットも出ていたかもしれません。スチャラカの意味は判りません。佐々十郎と大村崑は仲たがいして解散したと思います。大昔の話ですね。
 藤山寛美の電話の場面は有名ですし印象に残っています。あのころ関西弁の洗礼を受けたような気がします。
 「頓馬天狗」は大村崑でした。とんとんとんまの天狗さん♪というテーマソングでした。
 「てなもんや三度笠」も関西系ですよね。藤田まことは実は東京生まれだそうです。白木みのるは中国四国地方を廻るクラブ歌手だったそうです。財津一郎の「キビシー」「チョーダイ」は今でもCMで見られますね。

しつけ

  幼稚園のころのスナップ写真は味噌っ歯で笑っています。寝間着姿で筆箱を手に持っています。何んとなく具合が悪いときはしょっちゅう幼稚園を休んでいました。うちの中で絵を描いたりして過ごしたと思います。
 母のほうから「休む?」と言い出します。味噌っ歯であるのもしつけがちゃんとしていない証拠ですし、あいさつなどもちゃんとしつけられた覚えがないです。
 あいさつは子どものころに習慣づけられると大人になってだいぶ楽だし違うだろうとつくづく思います。
 両親から勉強の「べ」の字も言われたことがありません。宿題を済ませてから友だちの家に遊びに行くことを母が褒めたぐらいです。

ひよこのお菓子

 キャラ弁が可愛すぎて食べられない子どもがいるそうです。

 ぼくが子どものころはひよこのお菓子も3年に1度ぐらい食べる機会がありました。ちゃんと食べられることが多かったのですが、ある時ひよこがかわいそうで食べられなくなりました。
 ひよこの頭のところだけ残して食べるのをやめたことがあります。それ以来大人になって一度ぐらいは食べたかもしれませんが、あまり食べた記憶がないです。


 赤坂一ツ木通りの縁日で買ってきたひよこを2、3日で死なせてしまっていた子どものころはありますが、世田谷に引っ越してひよこを小さいにわとりまで育てた経験はあります。

明治生まれの戸籍

 祖母の姉Tさんは明治28年の4月生まれだとずっと自ら語っていました。祖母より7歳上でなるほどそうなんだと思っていました。そのお婆さんが亡くなって数年後祖母も亡くなり、相続のことで戸籍を調べる機会がありました。
 何気なくTさんの生年月日欄を見ましたら明治26年10月になっていました。しかも備考には明治25年9月出生とあります。あれれ、と思いました。
 生前こちらが訊いてもいないのに明治28年4月に生まれたんだよと何度も言っていたのは何だったんだと思いました。
 祖母も明治35年7月生まれで戸籍では8月になっています。このぐらいの誤差は時代を考えればあるだろうと思いますが、Tさんの2、3年の幅は誤差というより親御さんの都合なんだろうと思います。明治生まれは嬰児が生き続けるかどうかわからない時代でしょう。
 Tさんも祖母も90過ぎまで生きたのですからすごい生命力だと思います。