昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

渋谷 東急文化会館 東急プラザ

 中学に上がった年、昭和42年の秋ごろ赤坂から世田谷に引っ越しました。銀座線で渋谷まで来たら、井の頭線に乗り換えるのですが、クラスメイトと一緒だと渋谷の本屋に寄ることが多かったです。その時分は東急文化会館の上階にあった三省堂とか東急プラザの紀伊国屋に行くことが多かったです。
 銀座線は知っている人も多いでしょうが、渋谷駅に着くころ高架になっています。地下鉄の窓から渋谷パンテオンの看板が見えます。往きも帰りも見ますから今何がかかっているか一目で判ります。このビルにはプラネタリウムもありました。現在の渋谷ヒカリエのビルです。
 三省堂に立ち寄るとクラスメイトのIクンはなかなかの読書家だったらしくボーヴォワールの『第二の性』の文庫本なんかを手に取っていました。内容が判らないぼくはタイトルに「性」とあるのでいかがわしい本なのかと一瞬思いからかったりしました。あとから考えればIクンの親戚に大学生がいて60年代流行りの実存主義に染まり、サルトルの話をIクンにしていたのかもしれません。ボーヴォワールの名前を聞いていても不思議ではありません。
 Iクンにはかないませんが、ぼくだって父から教わってプーシキンの『オネーギン』を東急プラザの紀伊国屋で探してもらったことがあります。岩波文庫だったと思いますが、女性店員がお子さんには早すぎますと言うのです。休日で母も一緒の買物のついでに寄り、発育が悪く私服姿のぼくが小学生に見えたのかもしれません。代わりに『スペードの女王』を薦められました。それでも父の助言を信じて『オネーギン』を求めましたが、後悔先に立たず、散文詩など中1には難しすぎました。

天地真理

 天地真理が毎日テレビに出ていたのはいつごろでしょうか、昭和46~48年ごろですか。
 昭和46年ごろから下北沢の長田楽器でレコードを見ることが多くなっていました。はす向かいは北野書店です。
 長田楽器で吉田拓郎、井上陽水、荒井由実、吉田美奈子などのアルバムをながめてはため息をついていました。全部聴いてみたいけど全部買うお金はないわけです。LPレコードは2800~3000円はしました。1枚を選ぶのがひと苦労でした。


 今日はやめておこうとあきらめて北野書店で音楽雑誌を立ち読みし、情報を収集します。ここまではいつものコースです。
 いろいろ考えてまた長田楽器に戻って天地真理のアルバムのところへ行ってジャケットを見ました。恥ずかしさを殺して天地真理のLPをレジに持っていきます。

水色の恋 天地真理


 家のステレオで聴く天地真理は意外に良かったです。
 メロディーは歌謡曲っぽく、歌声はドラ声ですが高いところまで出ています。バックの演奏はけっこうフォークっぽく、アコギのスリーフィンガーとか強調していましたね。


 長田楽器では吉田拓郎とか吉田美奈子を買った覚えがあります。

青い体験

 昭和42年に世田谷に引っ越しました。自宅の裏のアパートに大手芸能プロダクション社長の兄嫁が別居のため住んでいました。うちに遊びに来て酒を飲むと悪酔いします。ぼくはまだ中1で寝室に避難してもベッドの脇に来て「ねえ、一緒に飲もうよ」としつこく声を掛けてきます。ぼくはそっぽを向いて寝たふりしました。
 ぼくが夫人の部屋に遊びにいくと当時としては珍しい栄養ドリンクがダースで置いてありました。いかにも精力剤入りドリンクという感じでした。ぼくの目の前でパンストを履き替えたりします。そのせいでぼくは淫猥な夢を見たことがあります。庭で立ち小便をしていると夫人が2階の部屋の窓から笑顔で声を掛けてくるのです。

 夫人はいつものようにうちに飲みに来てしこたま飲んだ後、1階に下りるとき階段の最後の段で足を踏み外し玄関のところで倒れこみました。スカートがめくれ上がってパンストのつけ根まで見えています。ウワーッと泣き出しました。傍らにあった消火器を倒して白い泡がシュワーッと出てきました。
 後日プロダクションの社員が来て夫人と話し合いを持ちました。結果1か月後に自宅に引戻されました。また後日、旦那さんがお世話になりましたとあいさつに来ました。

グループサウンズ GS 思い出すこと

 昭和42~43年ごろはグループサウンズ花盛りでした。
 「ビートポップス」は大橋巨泉司会の番組で、ゴーゴーガールが踊るバックスクリーンにサイケデリックな紋様の動画が映されます。
 スタジオ内は素人の男女が入り乱れ踊り狂っていました。


 当時のジャズ喫茶もゴーゴー喫茶も知りませんが、さながらスタジオ内がゴーゴー喫茶と化していたと思います。

 ザ・タイガースが登場したときの沢田研二の美少年ぶりには衝撃を受けました。

 ザ・テンプターズの「エメラルドの伝説」はソニーのオープンテープレコーダーで録音しました。レコードは買っていないのでラジオから録音したのだと思います。
 間奏の松崎由治のリードギターはかなり個性的でした。


 ザ・タイガースは「美しき愛の掟」のシングル盤を買いました。これは冒頭のワウワウギターがカッコよかったからです。


 岸部修三(現:一徳)のヘフナーバイオリンベースも評判が高かったです。(もっとも後年ザ・タイガースのリードギター森本太郎はレコーディングのときはスタジオミュージシャンが演奏していたと告白しました)

 ジャッキー吉川とブルーコメッツは「北国の二人」のシングル盤を買いました。これは冒頭ドラムがドコドコドコドコドコドコと始まりカッコいいと思いました。ドラムはコピーしました。


 少年マガジンをスネアとタム代わりに、ステンレス板をシンバル、ハイハット代わりにしてレコードを聴きながら叩くのです。


 ドラムはけっこう気になってパープルシャドウズの「小さなスナック」はハイハットを叩くリズムが難しかったり、ヴィレッジシンガーズは林ゆたかのバスドラが強調されていて心に響きました。

吉田拓郎のことなど

 昭和46年、高校生のころクラスメイトのNと違うクラスの子と吉田拓郎のコンサートに出かけました。子どものころはコンサートなど行く機会もなく、だいいちコンサートという言葉はクラシックを意味し、フォークなどに「コンサート」を使うのは違和感がありました。コンサートという言い方はやはり昭和40年代以降だったのではないかと思います。


 当時ポピュラー音楽誌を見ると猫も杓子もコンサートと書いてあって、フォークもコンサートと呼ぶんだなと思いました。女子ならぼくより年下でもGSのコンサートをウェスタンカーニバルかなんかで見ていた可能性はあるでしょうが、女性だけで結成されたGSというのは当時見当たらなかったので男子はコンサートは出かけなかったと思います。ちなみにGSの生は見たことがありません。GSは昭和44、5年にはすっかり下火だったと思います。
 Nと興味の合致点は天地真理とボウリングでした。Nは大人になって司法書士になりました。


 昭和46年の2月ごろジョン・レノンのシングル「マザー」を買ったのは覚えています。その前年前々年ぐらいにビートルズの「カムトゥゲザー」「サムシング」「レットイットビー」、ローリング・ストーンズの「ホンキートンクウィメン」とかが流行り相前後してシングル盤を買いました。LPのアルバムを買うだけのおこづかいの余裕はなかったです。