昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

東京ことば

 父は浮気もしましたし、酒もたばこもやりましたのでそれほど堅物というほどではなく普通だったと思います。若いころはアルコールが苦手でしたが、34、5歳のころバスに乗っていて急ブレーキのため転倒し自然気胸になりました。入院して抗生物質を投入されたのを機に体質が変わり、アルコールが飲めるようになったのです。


 堅物というのではないけれど、言葉遣いが古臭かったです。同業者のことは奴さん、誰かの奥さんのことを細君、そういうドラマの台詞みたいなことを言うのです。尾崎紅葉の『多情多恨』だかの冒頭部分に「細(さい)が細(さい)が」というのがありますが、明治時代はそう言っていたのかもしれませんね。


 家にいるときは着物姿が多かったです。ゴミを捨てに外に出るときも着物でした。戻ってくるところをこっそり見たら文楽人形が歩いているみたいでした。


 父は傍から見たら気難しげに思われたかもしれませんが、幼少期に苦労していますから、ザックバランなところもありました。世田谷の一戸建てに住んでいても、ハンチングを被って渋谷の立ち飲み屋で呑んでいました。ぼくが渋谷を自転車で散歩しているときにEという立ち飲み屋を通りがかったので、外から内を覗いたら父が呑んでいるのを見たことがあります。


 東京弁があるかどうかわかりませんが、朝日新聞はあさい新聞、あそこはあすこ、ぶら下がってはぶる下がって、風呂敷はふるしき、歩いてはあるって、股引はももしき、そういう言い方は身近にありました。


 昭和の終わりごろ、母と神宮前を散歩したときに、隠田神社はどこですかと路地のタバコ屋さんに訊いたところ、ここをまっつぐ行ってください、と返ってきました。隠田神社のあたりは肺結核で早死にした伯母が戦時中東京に下宿していたころに近所に住んでいたのです。隠田神社をバックに写真を撮り実家に送ってきたと母が言っていました。そのころの原宿は寂しいところだったそうです。

世田谷

 昭和45年に世田谷のD町に住んだのですが、そこは往年の大俳優Sの家でした。近所には作曲家Hとか同じく作曲家Kとかの家もありました。


 昭和20年代の「キネマ旬報」か「近代映画」かにはSの家は世田谷の別のD町とあります。ですからD町に住みもうひとつのD町の家も持っていたのかもしれません。ここでSの息子で俳優のSが育ったようです。育ったというのはおかしいと思うかもしれませんが、うちが買ったD町の土地は昭和23年にS(親)が登記したと謄本にはあり、S(息子)は戦時中生まれだからです。


 となりのMさんはS(息子)が4、5歳のころは東京で食べ物が不足してひもじくて泣いていたので、芋を蒸かして食べさせていたと話してくれました。


 同じ敷地内に離れみたいな部屋があり、そこに俳優Sが学生時代下宿していました。大俳優から名前を取って芸名にしたのです。こちらのSはうちの母と同じ歳の生まれですが、昭和30年代に自動車事故で亡くなっています。この人の子どもも俳優になっています。

吉祥寺 ディスコ

 昭和50年代はじめ吉祥寺に「インディペンデント」というディスコができました。99円というのが売りでした。場所はジャズバー「サムタイム」の付近だったと思います。
 99円で入場料だけなのか、ドリンク付きなのかわかりません。どちらにしても激安なのは間違いありません。ずっと99円だったのかその後のことは知りません。


 ともかく昭和50年代はじめ、ふつうに大音量で踊れましたし、チークタイムもありました。ジョン・トラボルタの曲とか「メリー・ジェーン」とかもかかったと思います。
 ちょうど「バンプ」か「ヴァンプ」が流行っていたころです。バンプというのはお互いの腰とかヒップを当て合うのです。


 ある先輩が2時間待たされたと何度も文句を言うので、それを友人Kが愉快そうに再現していました。ぼくは先輩の気持ちもわかるので複雑な気分でした。でもディスコで楽しみたいのでスルーしました。


 チークタイムで知らない女性とひとしきり踊ったら、友人Aはお持ち帰りかと思ったと言いました。大きなお世話と思いました。

下北沢 ロフト 続

 下北沢ロフトがオープンしてからは日常的に大した理由もなく、一番落ち着いて友人と話ができる、ぐらいのノリで飲んだり食べたりしました。


 昼間ぶらっと入ってレコードをリクエストするときもありました。オ〇タ〇〇ンを飲んで相性の悪いコーヒーは避けレモンティーを注文して、「エイプリルフール」('69)をリクエストしたことがあります。細野、松本零(隆)、小坂忠が在籍したバンドです。そのとき店長が気さくに声をかけてきました。懐かしいですね、って感じで。当時すでにそのレコードは懐かしかったんです。店長はぼくと同じ歳でした。オ〇タ〇〇ンは新宿歌舞伎町の薬局で6500円で買いました。


 ライブが無い晩など友人たちと酒を酌み交わして取り留めもなく話しました。よくかかったレコードは「スタッフ」「コーネル・デュプリー」「シュガー・ベイブ」「大瀧詠一」「細野晴臣」「リトルフィート」「ニール・ヤング」「C,S,N&Y」「バッファロー・スプリングフィールド」「ウェザーリポート」「リターントゥフォーエバー」「はっぴいえんど」「ウェストロードブルースバンド」「憂歌団」「チャー」など、珍しいところでは「ソフトマシーン」とかもかかりました。


 トイレが1個しかなく順番待ちしているとき、ぼくのすぐ後にバックスバニーのギタリストが並んだことがあります。ちなみに無名のころのサザンのギタリストOが下北店のウェイターのバイトをしていました。南佳孝が飲んでるときもありました。


 よく食べたのは焼きうどんです。具材はシンプルでウスターソースも混ざっていたかもしれませんが基本はしょう油味でした。かつお節(昔はかつぶしって言いましたね)がかかっていました。青のりはどうだったかうろ覚えです。

働く女性

 昭和53年ごろ、印刷会社からチームごとコンピューターのメーカーに出向しました。チームの人たちはみんな年上です。リーダーが昭和22年生まれEさん、部下が25年生まれ男性二人です(名前は忘れました)。あと当時派遣という言い方があったかどうかわかりませんが、女性二人は23年生まれKさんと24年生まれNさんでした。
 ほとんどの人は職業訓練校出身ということでした。おそらくプログラムとかシステムエンジニア的なことを勉強してきたのだと思います。


 リーダーのEさんはいつも前の晩の酒が残っていて酒臭かったです。当時30ちょっとなのに50ぐらいに見えました。Eさんは女性スタッフのKさんを煙たがっているようすでした。
 Kさんはぼくが入社したとき彼女も新規契約で数日遅れて入ってきました。デスクが真ん前で、6歳も上ですが同期のような存在です。それで出向チームに加わったのです。


 Kさんが昼休みに銀座に肉料理を食べにいかない?と誘ってきました。ビフテキで有名な店でランチ限定で500円で食べられるから、というのです。
 当時ワンコインという言い方はしなかったと思いますが、500円でビフテキが食べられるならと一緒に出掛けました。銀座ですから昼休みの1時間以内で戻ってこれます。


 Nさんとたまたま帰宅時間が同じのときに彼女が囲碁クラブに通っていることを聞かされました。新宿なので一緒に行ってみると、歌舞伎町への入口の雑居ビルの2階に囲碁クラブはありました。囲碁客は見渡すとほとんどオジサンばかりで、20代の女性が加わるのは変わった光景でした。
 Nさんはそのころ流行りのオセロも得意でぼくなどは到底かないませんでした。やはり理数科系の女性なんだなと思いました。


 そのうちKさんが辞めさせられたと聞きました。ぼくからかKさんからか電話で連絡を取ってある日の夕方渋谷で会いました。名曲喫茶「らんぶる」で会社への不満とか話しました。「らんぶる」は天津甘栗の裏にありました。ぼくの口からも慰めにもならないことを喋ったと思います。Kさんは引っ越しの話をしていました。当時中目黒あたりに住んでいて自分でリアカーを引っ張って近所に引っ越したと話してくれました。
 気晴らしにゲームでもしようと、喫茶店を出て渋谷センター街のゲームセンターへ行って1時間ぐらいゲームに熱中しました。