昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

団塊世代とマルクス主義

 昭和54年ごろバイト先のUさんは妊娠のためバイトを辞めました。軽い喪失感を抱いたぼくとMさんはそれまでライバル関係でしたが、社食で顔を合わすうちにどちらともなく話すようになりました。


 どんな本を読んでるか訊かれたのだと思います。ショーペンハウエルと答えました。当時はまだショーペンハウエルという表示が多かったと思います。ペシミスティックな部分に魅かれていたんだと思います。


 Mさんは初めのうちは雑学的な話をしていましたが、だんだん中身が思想的な様相を帯びてきました。マルクス主義です。Mさんはぼくより6つ上の団塊世代です。高校の世界史の教師を以前やっていたそうです。
 マルクスの1848年の『共産党宣言』の冒頭に人類の歴史は階級闘争の歴史だ云々の件があるそうです。ぼくも関係書籍をちょっと読んでみました。喫茶店で会ったときにあんまりチンプンカンプンでもあれだなと思ったからです。Mさんとは町の喫茶店でも会うようになっていました。
 どうやらヘーゲルとフォイエルバッハを足して2で割るみたいな話かなと思いました。そう言うと、うんうんという感じで返事が返ってきます。要は弁証法と唯物論を採用し、弁証法的唯物論になるというわけです。形而上学とか空想的社会主義を切り捨てるわけです。


 質問してみました。実存主義とかあるけれどあれはどうなの?って感じで。実存主義も観念論だというのです。もちろん宗教も観念論なので否定の形をとります。


 さらにレーニンの『帝国主義』とかトロツキーの『永続革命論』とかを薦められました。第一インターとか第二インターとかの段階があって、世界的に革命が起こらないと社会主義、共産主義には至らないというのです。ソ連とか中国は一国社会主義なので本物ではないと説明されました。今は国家社会主義という呼び方ですね。なので革命は永続的に起こっていかないといけないということです。


 ルカーチの『美学』も薦められました。これはちらっと読んだっきりですが、グノーシス派とか言葉が出てきますから、今読み返しても雑学、教養として面白いかもしれません。


 原宿の竹の子族を見物に行ったとき、バイト先のやはり団塊世代の先輩と遭遇し、神宮前の喫茶店で団塊同士の議論が始まりました。情報は観念的であってはならない、言語による厳密なる事実を構築すべき、いや言語も観念だ、とか何とか何やかんやと喋っていました。ぼくは話に入っていけませんでしたが、団塊世代の議論を目の当りにしてちょっと得した気分でした。

昭和の思い出

 母方の実家には縦型の電話がありました。昭和のいつごろまでだったか正確には思い出せませんが、少なくとも昭和50年代までクルクル回して交換手に住所と何ケタかの番号を伝えて喋っていたと記憶しています。


 縦に長くて黒い電話ですが、横にレバーが付いていてクルクル回すんです。叔母たちは交換手にはふつうに喋るんですが、相手が出ると「もしもーし」と遠くの人に声かけるような感じで喋ります。




 話は全然変わりますが、傷痍軍人が2、3人で渋谷とかにいましたね。最後に見たのは昭和53年ごろです。


 彼らが演奏するのはハーモニカ、アコーディオンが多かったです。前にはかごのようなものが置いてありもちろんお金を入れる人もいましたが、素通りする人のほうが多かったです。
 なんとなく義手や義足が痛々しかったですし、おどろおどろしい感じもしました。


 よく見かけたのは渋谷の東口のガードの下あたりで、花屋さんとかがありました。並びに「東横(東急?)のれん街」がありました。近辺にコインロッカーとか電話ボックスとかバス停で混み合っていました。地下鉄の出入り口もありました。


 あのあたり昭和42~44年ごろ、上階の地下鉄銀座線渋谷駅から書店に寄るときには通りました。ふだんは井の頭線乗り換えですから、ホームの前方か中ほどの改札を使います。


 いっしょに帰ることが多かったクラスメイトのRクンは渋谷の常磐松の近所に住んでいたので、彼は後方の階段を使っていました。たぶんバスを利用していたんだと思います。彼の父親は後年京大の中国文学講師を務めました。

渡辺香津美

 YMOの70年代末海外ツアーに渡辺香津美が参加したのは有名ですね。ライブ盤のレコードが出た際に渡辺のギターのトラックはカットされて代わりに坂本がシンセを弾いたエピソードもありました。


 確かあの時は渡辺が不満を言ったと思います。そのあとの顛末はよく知りません。YMO側は無視したんでしょうね。何事も無かったように、坂本は渡辺らとバンド(KYLYN BANDとか言いましたっけ?)を組んでライブ活動もしてたと記憶しています。


 もう30年以上の前なのでサウンドどうこうはどうでもいいです。YMO側とすれば、「東風」とかのギターソロのときにフュージョンっぽいアドリブを弾いたので、フュージョンに慣れた海外の観衆にはウケたという事実はあったにしろ、YMOのコンセプトに合わない、単なるツアー要員でしかない、という考えだったのだろうと思います。レコード会社が違うとかいう建前はあったかもしれません。


 肝心の「東風」のギターソロはどうかというと、あまり感心できません。フュージョンのどこかで聴いたアドリブをつなぎ合わせたテキストのようなプレイだと思います。ジャコのレコード化したアドリブそっくりの部分もあります。元々渡辺のプレイはコピペみたいなアドリブが多いので驚きません。


 渡辺香津美のピークは70年代半ばの渡辺貞夫グループに参加している時だと思います。フュージョンに転向する直前です。大げさな言い方ですが、ジャズギターの極限まで行っていました。
 FMから流れてきたナベサダグループのスタジオライブは圧倒的でした。前衛とは違って先鋭的なプレイでした。音源は残っていないようなので何十年も聴いていません。(いくら検索しても出てきません)フュージョン転向した時は非常に残念な気持ちがしました。


 ジャズだけで勝負すればパット・メセニーなど目じゃありません。フュージョン化されたギタープレイではジャコグループのセッションでもYMOのツアーでも一流じゃありません。

荒木経惟 アラーキー

 友人Nが知り合いのコネで新宿二丁目のスタジオで写真展を開きました。昭和52年か3年ぐらいだったと思います。知り合い同士みんなが集まり、パーティーみたいにラジカセでジャズとか流して一杯飲みながらワイワイやっていました。
 土台、素人さんが見に来るような写真展じゃありませんでした。


 ひょっこり荒木経惟が現れました。入ってくるなりNのところに来て「いやあ、おめでとう」と言いつつ、握手を求めました。Nは当時アマチュアですし一面識もなく戸惑いながらも握手に応じました。もちろんあのアラーキーだってことは知っていました。
 Nにしてみればアラーキーに胡散臭さを感じていたようです。


 写真展初日も終わり、近くの居酒屋でみんなで祝賀ムードで呑みました。深夜喫茶で話し込み終電も過ぎたので、どうしよう、しょうがないから高円寺とか荻窪まで行って友人の下宿に泊まろうということになりました。


 暗い中、新宿から先輩後輩入り混じり9人ぐらいでゾロゾロ歩きました。そのときに上った話題で覚えているのは、荒木は本物か偽物かという議論です。インチキ臭いけど本物だと断固言い張るKさん(本名Hさん)と、いや偽物だと言う後輩に意見は真っ二つに分かれました。この後輩は木村伊兵衛賞を取りました。


 後から考えれば、Nは外見は突っ張っていますが意外とミーハーですから、有名写真家に握手を求められて緊張してしまったというのがホントのところかもしれません。


 ちなみに「エイプリルフール」のLPジャケット写真を撮影したのは荒木経惟(当時は会社員)でしたが、胡散臭いと反発を感じたのは松本隆だと柳田ヒロがラジオで語っていました。

細野晴臣教室


 昭和54年のことだったと思います。細野晴臣教室に参加しました。一般用の講座です。受講料を払えば誰でも聴けました。

 週1か隔週か覚えていませんが、ぼくは3回ほど行きました。1回と2回はインドの映画音楽などの紹介です。レコードを聴かせてくれるんですが、ふーんそうかって感じでした。


 細野晴臣は「HOSONO HOUSE」まではカントリー、フォークロック路線でしたが、「トロピカル・ダンディ」「泰安洋行」「はらいそ」とアルバムの傾向が変わってきていました。
 はっぴいえんどのころからのファンは「トロピカル・ダンディ」以降はついていけなくなりました。どうなるんだろうとアルバムを買う人はいても複雑な気持ちでいたと思います。


 3回目の講座はスタジオ見学ということで、田町のアルファスタジオに受講者たちは集まりました。

 当時イエローマジックオーケストラが1枚目のアルバムを世に問うて、反響があったころです。
 我々受講者はセカンドアルバムの録音現場を見学しました。セカンドアルバムといえば「東風」「ライディーン」などヒット曲を含んだYMOの名前が一般に知られるきっかけを作ったアルバムです。
 ただYMOという呼ばれ方は初期はされていなくて、細野さんが「略してYMOなんつってw」と冗談で言ったことが、冗談からコマみたいに一般的になってしまいました。


 スタジオはリラックスした雰囲気でした。差し入れにケンタッキーフライドチキンとか甘色(あの円錐形のパンです)が振る舞われました。

 坂本龍一はほとんど喋らず席をゆずっても知らん顔するような態度でした。
 細野さんは学校はどうしてる?とか話しかけてきます。
 高橋幸弘はぼくのライターを借りてタバコに火をつけていました。ぼくはそのころまだタバコを吸っていました。知り合いの天ぷら屋の店名が刻印された赤い100円ライターをテーブルの上に置いていたのです。


 みんながタバコを吸ったりチキンを食べた楕円形のテーブルの上にキーボードを持ってきて坂本が演奏し始めました。一応録音はしている様子でした。

 細野さんの曲を再生する中、高橋がこれを聴くと眠くなると言いました。


 やっぱり思った通り自由な個人主義のバンドだという印象を受けました。ですが、YMOには当時それほど興味が持てず教室をやめました。


 YMOの中で好きなアルバムは「BGM」と「テクノデリック」です。