昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

ステレオ ①

 うちにステレオが来たのは昭和39年か40年ごろだと思います。


 それまで叔母たちが下宿していた新井薬師でステレオは見たことがあり、わりと正方形かむしろ縦長(正面から見て)のでした。それはレコードプレーヤーに申し訳程度のスピーカーが付いたもので、ラジオが内蔵されていたかどうか思い出せません。


 サイドボードの横にあってウィスキーのハイカラな瓶や水飲み鳥、写真立てに入ったプレスリーのプロマイドとかに溶け込んだ調度品の一種でした。

 赤坂台町にやってきたのはステレオ然としたものでした。横長のいかにもスピーカーが左右にちゃんとある感じのものでした。ステレオですから当たり前ですけどw。FM/AMラジオが内蔵されていました。
 コロンビアだったのかビクターだったのかうろ覚えです。犬のマークが脳裏にありますのでビクターでしょう。

 これは叔父が秋葉原の電気街で見立ててくれたものです。横長の家具調ステレオということで5万円しました。縦長のは38000円ぐらいでしたから高いものを買ったと子ども心に思いました。


 そのステレオで初めのうちは叔母のK子ちゃんに譲ってもらったワルターのモーツァルト40番とかグリーク、ビゼー、ハチャトゥーリヤンなどを聴きました。33回転LPと言っても小さめのものです。

Moonglow / Theme From Picnic By Morris Stoloff



 同じく叔母のE子ちゃんからは「トゥナイト」とかのアメリカンポピュラーのソノシートとかA面「愛情物語」のサントラ(ショパン)B面「ピクニック」のサントラムーングロウとか聴き、ハマりました。


 自分で買おうと思ったのは加山雄三の「蒼い星くず」(A面)「夕陽は赤く」(B面)です。

プラッシー カツレツ

 プラッシーはお米屋さんが運んできます。これはほとんど知られていることです。子どもにとってジュースは夢のような飲み物です。

 でも一度バヤリースが届いたときがありました。親戚のひとが来るとかいう数日前です。プラッシーよりだいぶハイカラだと思いました。

 渡辺のジュースの素も一袋ずつオレンジを買っていました。袋から粉が出てきた時点でわくわくしました。
 テレビでグレープ味のCMが流れました。もう夢中で母を説得しました。ぶどうの栄養がいっぱい詰まっているんだよ、とか適当なことを言って説得したのです。
 10袋入りか、うろ覚えですが、ファミリー詰めを買って飲んだときの感激は忘れられません。


渡辺のジュースの素・CM



 近所のY精肉店でメンチ(推定15~20円)を買うことがよくありましたが、たまにカツレツを買います。


 小さいのが30円、中が50円、大は70円です。妹が生まれたかどうかのころは、中カツレツ三枚か大カツレツ二枚、+メンチ二枚を買って家族四人で分け合って食べました。


 コロッケはあまり記憶に残ってないです。うちが倹しかったのか判りませんが、昭和30年代半ばは港区の住宅街でもその程度の物価と暮らしです。

溜池の本屋

 溜池に本屋のYさんがありました。Yさんの息子は幼稚園、小学校、中学と同期です。
 祖母から聞いた話では、店閉まいした後夜更けに店主が出かけていって料理屋さんとか料亭の裏口から入って高齢の常連客に絵を売っていたそうです。

 江戸の浮世絵風のものなのか、幕末明治初期風のものなのかでしょう。それらのものは現代から見れば猥褻図画というより骨董品に近いものだったろうと想像します。


 60年ぐらい前の話なので完全に時効です。

玉子焼き

 母がつくる玉子焼きは甘かったです。甘いのとしょっぱいのどっちにする?と訊かれてだいたい甘いほうを選んでいました。玉子焼きは甘くなければもったいないと思っていました。それでなくても甘いものに飢えていましたから。

 巨人大鵬玉子焼きの時代でしたから。王選手のサイン入りポスターは少年マガジンに応募するともれなくもらえました。大鵬より柏戸が好きでしたね。玉子焼きは甘いほうです。

 もともと卵はそれほど好きじゃなかったです。生卵はあまり食べなかったと思います。大人が食べるものだと思っていました。しょっぱい玉子焼きも大人が食べるものだと思っていました。

 幼稚園の遠足で弁当持参で行ったのですが、玉子焼きが甘じょっぱくてうわっと思ったことがあります。玉子焼きは甘かったのですが、たまたますぐ脇に梅干しがあったので味が移ってしまったのです。


 あの時の玉子焼きの甘じょっぱさは忘れることが出来ません。そのこと以来ちょっと玉子焼きを控えたほどです。

円通寺坂下の塾

 円通寺坂下の通りにMさんという塾がありました。塾と言っても今時の進学塾ではなくて手習いのようなものでした。教科書のおさらいにも届かないレベルのものです。漢字の書き取りテストが100問出て、たいがいの子は悪くて96点取れます。
 放課後の集会所みたいなところです。

 一ツ木通りの甘味処Tの娘Iさんも来ていました。
 一ツ木のYクンがぼくの首に腕を回していきなり絞めつけたこともあります。ぼくがはしゃいでいたからでしょう。理由は判りません。

 永田町のハッサンも来ていました。ハッサンはある時四ツ谷にいい塾があると言い出しました。ハッサンはそちらに移ると言っています。一ツ木のYクンも赤坂田町のTクンもそちらに移ると言うのです。


 結局四ツ谷駅前のKという出版社のビルヂングにある塾に通うことになり、M塾はやめざるを得なくなりました。今思えば子どもは残酷だと思います。Mさんにしてみれば近所の子どもたちに見放されたような気持ちだったでしょう。月謝など300円ぐらいの世界だったと思います。
 四ツ谷のK塾(ちなみに有名な塾とは無関係です)も今の感覚の塾に遠く及びません。