昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

室内楽

 昭和59年にフォーレの室内楽に出会ってから、フランス系の室内楽を追いかけてみました。
 小石川図書館でフランクとかサン・サーンス、ショーソン、ドビュッシー、デュパルク、ピエルネ、ルクー、ラヴェルなど借りて聴きました。


 新宿のコタニに何度も通ってジャケットの写真に魅せられたのはルクーのレコードでした。
 チャップリンの服装をましにしたような三つ揃えの服装が妙に目新しく、山高帽のようなものを被ったルクー本人の古い写真がジャケットになっていました。
 このレコードを眺めてはため息をついていました。試聴はできないものの、好みの音楽だろうという確信めいたものはありました。


 ギョーム・ルクーは1870年にベルギーに生まれ、1894年にチフスに罹り24歳で若死にしました。ジャケットの写真が20歳ぐらいとすれば19世紀末ということになります。


 1894年生まれの母方の祖父には山高帽に三つ揃えの服装での記念写真がありますので、当時の正装の定番だったのでしょう。


 ともあれそのレコードにはピアノ四重奏曲が収録されていました。コタニに通って5回めぐらいでやっと買う決心がつきました。うちに喜び勇んで帰り聴いてみたところ気に入りました。無声映画の伴奏音楽みたいな感じでした。


 つづいて中野の路地を入ったところにある文化堂という中古レコード屋に出かけました。店主のおばさんにプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲を薦められました。間口も狭く、奥行きも3メートル無いぐらいの小さな店です。自然と会話するはめに。ぼくは室内楽が好きだから、と言うと、若いからよ、と言われました。


 後日確かにプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲はシゲティの演奏のレコードを小石川図書館で借りて気に入りました。


 文化堂で買ったルクーのピアノ三重奏曲も気に入りました。買う時、あら珍しいの聴くんだと店主は言いました。

絵の思い出

 古いアルバムを見ると、幼稚園をズル休みして寝間着姿で絵を描いているスナップ写真があります。絵を描くのは好きでした。


 幼稚園のアルバムにも象の絵とか遠足とか日常を描いた絵などが見られます。象の絵はテレビニュースで放送されてインドにも渡りました。
 遠足で小高い丘に登ったときの絵は山の頂上からおしっこしている絵です。これは男子ならよく描くと思いますが、なぜか頂上からおしっこしたい本能みたいなものがあるんでしょうか。他の絵には女性の先生のコメントがありますが、その絵にはコメントがありません(笑)。


 あと日常を切り取った絵としてはトラックが走り出すのをエプロン姿の母が見送っている場面です。トラックのボディーには「TAB」の文字が書かれています。まったく意味はなく単にアルファベットを書けばトラックらしく見えると思ったのでしょう。進駐軍のトラックが来ていたわけでは全然ないですし、ABCとTBSがごっちゃになったんだろうと思います。
 おそらく左官屋さんか植木屋さんがうちで作業を終えて帰るとき、母が見送っているイメージでしょう。三時にお茶を出している光景とか珍しそうに見ていたと思います。


 夏休みに母の実家に行ったとき絵日記を描きました。スイカを食べている自分を真正面から描いた絵です。1歳上の従兄にも代わりに絵日記に同じ絵を描きました。子どものタッチだからバレないと伯母も思ったのでしょう。でもバレたと思います。


 小学生時代で思い出すのはカバの親子の絵です。大きいカバを描いて背中に乗った子のカバを小さく描きました。アングルは真上から見たものです。このとき担任のF先生から褒められたのですが、同じ学年の図工の時間に同じ絵を描いたところ、今度はF先生が生徒みんなにこういうふうに同じ絵を描いてはダメと諫められました。

日比谷公園 ③

 開園当日、日比谷公園はたいへんな人気でした。老若男女が我先にと公園に入り、園内は人々で溢れるほどでした。
 初めて触れる西洋の文化を満喫しました。花を盗む人も池に身を投げる人もいませんでした。


 日比谷公園の中にある首かけイチョウは昔日比谷通りにありました。
 道路を拡張するために、このイチョウを移植すると本多静六は首をかけてもと主張しました。
 金がかかり枯れてしまうのではないか、と反対の声もありましたが、何とか移植に成功しました。
 関東大震災、第二次世界大戦も見つめてきた、このイチョウ。



 昭和46年11月19日沖縄返還闘争で木造の松本楼も焼けました。火炎瓶で全焼しました。
 首かけイチョウも一部焼けましたが何とか生き返らせました。松本楼の会長Kさんは子どもの時、雪が降った日は首かけイチョウが大きいので周りに隠れて雪合戦をして遊んだ、とのことです。

日比谷公園 ②

 しかし、当時の東京市の担当者から思わぬ横やりが入りました。


 まず、門に扉がない、夜、花が盗まれる、江戸城のお濠を利用して作る池は身投げの名所になると困る、というようなことでした。本多は池の石垣の下に浅瀬を作り、直接水に飛び込めないようにすることでこの問題を乗り切りました。


 門の扉のことは断固譲りませんでした。皆が公園を愛し花など盗まないくらいの公共心を育てなくてはいけないと力説しました。


 こうして日比谷公園は明治36年6月1日開園しました。本多の設計から三年後のことでした。


 園内に縦横に遊歩道を廻らし、色とりどりの花を咲かせる花壇を配置しました。人々は西洋から取り寄せた花々に間近で触れ合えるようになっています。


 中央付近の高台には音楽堂を予定し、やがてここには舞台が作られ、陸軍と海軍の軍楽隊が交互にコンサートを行いました。当時は鹿鳴館の舞踏会など一部上流階級だけのものだった西洋音楽を一般庶民も楽しめるようになります。



 西洋の公園ではレストランも当たり前です。「松本楼」でカレーライスを食べコーヒーを飲むのが一番のハイカラとなりました。  (つづく)

日比谷公園 ①

 日比谷公園の成り立ちは次のようになります。(テレビ番組から抜粋)


 明治時代、日比谷に陸軍操練所はふさわしくないので西洋式の公園とすることになりました。

 日比谷公園(陸軍操練所跡)
 いくつかの設計は不採用になりました。東京駅の設計者辰野金吾の設計も不採用になりました。
 そこへ留学先のドイツから帰朝していた本多静六が辰野を訪問しました。本多は留学時代のドイツの公園の状況を細かく説明しました。辰野は公園の設計を委ねました。


 本多の設計案はドイツ風に湾曲した馬車道で敷地全体を分割、それぞれの区間ごとに違った風景で人々が憩えるようにと考えました。さらに池や花壇を配置し、多くの花々が楽しめ、樹木も高低差をつけたドイツ風で運動場なども設けられました。(つづく)