昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

風疹にかかった時

 昭和55年ごろと思います。風疹にかかりました。そのころ風疹はちょっと流行っていたように思いますが、検索しても出てきません。


 カメラマンの仕事は二週間ぐらいは休んだと思います。医者にかかりましたが、ああいうものは治るものではありません。
 それよりも家で寝ていても熱がすごくて身体じゅうが痛くて耐えられない状態でした。医師に処方されたアスピリンはありました。熱がどうにもならない時にアスピリンを服用しました。


 それがたまたま空腹だったのが良くなかったのです。
 吐いて吐いて止まらず胃液まで吐きましたが、その際、延髄の左側に突き抜けるような激痛が走りました。星がいくつも頭の上に舞っていました。


 風疹が治っても何十年も首の後ろの左側はちょっとしたことで痛むようになりました。今回の脳梗塞もそこの部分の血管が詰まったのです。
 アスピリンは空腹で飲むものではありません。結局持病になってしまったのですから。

80年代

 昭和59年ごろ、四谷の催眠センターに通いました。延髄を軟らかくするために首を回す運動や身体全体の柔軟体操などして、徐々に催眠誘導状態にもっていきます。


 3か月通いましたが、一度も催眠にかかったことはありませんでした。代表がかける催眠にかかったような動きはしたことがありますが、単に空気を読んだだけです。


 夏場は千駄ヶ谷の屋内プールに通いました。ゴーグルをするとかなり泳ぎやすくなります。屋内プールは水も冷たくないですから、リラックスして楽しめました。


 といってもクロールはできません。もっぱら平泳ぎです。自転車で行って泳ぐことで暑気払いになり、帰りも自転車ですから軽い汗をかきます。部屋に帰ってからのビールが最高にうまかったです。


 プールから世田谷の自宅に行って、晩ご飯を食べることもありました。夜9時を回ったころ、また自転車で渋谷のアパートに帰るのです。侘しさもありましたが、独りきりの爽快感が勝っていました。

フランス幻想文学

 昭和59年、渋谷の紀伊国屋書店でユイスマンスの『さかしま』を見かけてタイトルが気になってしょうがないまま、何週間か本屋に通って結局買いました。それだけに大事に何日間かかけて読み耽りました。
 細かい学識や教養を要するところは判らなかったですが、透徹する精神というかテーマというか雰囲気は大いに共感するところがありました。サドやバタイユのように過激ではないけれど、様相は実は異常です。当時はけっこう影響を受けたように思います。
 ユイスマンスの『彼方』はさらにエスカレートしていてちょっとついていけず途中で投げ出しました。


 でもフランス幻想文学に興味を持ったので白水社から出ていた何冊かの集成本を読みました。その中にはマンディアルグやピエール・ルイスもあったように思います。マンディアルグは白水社の箱入りの本を三巻読みました。
 国書刊行会のシリーズにはレオン・ブロワの『絶望者』も含まれていました。これを意識したのは次のエピソードが元です。新宿の紀伊国屋書店で漫然と本を眺めていた際、熟年の女性がさっと手に取ってレジに持っていったのです。
 『絶望者』なるタイトルの本を何の躊躇もなく買う女性がいることに軽いショックを受けました。いったい何が書いてあるんだろう?と気になって仕方がなかったです。
 ですが、経済的な理由で何年も買えずに過ごしました。やっと読めたのですが何が何だかわけわからんという状況でした。カトリックのこともよく判りませんでした。
 ただブロワの『貧しき女』は面白く読んだ記憶はあります。内容は忘れましたが、やはりキリスト教に関係するストーリーだったと思います。うちの本棚にあるはずですが、読み直そうと探してみましたが現状行方不明です。

朝方の缶ビール

 渋谷区東に住んでいたころはやさぐれた感じでした。真夜中に隣りの部屋の住人が大音響でジャズを鳴らしてきました。負けじとこちらも大音響でジャズをかけます。
 あちらがサックス入りのカルテットなら、こちらはゲイリー・バートン・クインテットのシンコペーションや変拍子の多い曲をかけます。あちらの部屋の入口にはこれ見よがしに雪駄が置いてありました。


 夜中眠れない日は、朝5時になるのを待って通りのコンビニに出かけます。サンドウィッチを買ってコンビニの脇の自動販売機で缶ビールを一本買います。サッポロ黒ラベル500mlが定番でした。すでにあのころ夜11時から朝5時まで自動販売機は休止でした。
 部屋に戻ってサンドウィッチを頬張りながらビールを飲む、これが何とも言えない安らいだ気分とやさぐれ感がありました。
 今日はあまりビールは飲みたくないという日は、スプライト1リットル瓶入りを一本買います。あの緑色の瓶です。
 だいたいそのままゴロンと寝てしまいます。


 ある日、部屋で寝ているとき夢を見ました。夏「小淵沢」の駅を降りて田舎道をハイキング気分で歩いていました。向こうから白い日傘を差したご婦人が歩いてきました。すれ違いざま見てみると、顔が絵の具で塗ったみたいに真っ青でした。しかもその人は女優の高峰三枝子でした。
 ぼくは飛び起きました。何とも変てこりんな夢ですが、背中にびっしょり冷や汗をかいていました。不吉な雰囲気がありましたので結局部屋は退去しました。

広尾界隈

 青山高樹町には往年の時代劇俳優、大〇橋〇が住んでいました。そこから西麻布方面に行くと日赤通り商店街があります。意外とそんなに広くはありません。
 ですが、実は青山高樹町と麻布笄町の境界線だったんですね。


 この通りの裏には西武のT氏の邸宅もあるようです。通り沿いに日赤病院や東京女学館があります。ベテラン俳優I所有のマンションもありますし、聖心女子大もあります。


 昭和59年ごろ近所の広尾に短期間住んだことがあります。朝7時に隣りの住人がお経を始めるので退去しました。そこの家賃は29000円でした。下宿型でトイレは共同、風呂なしでした。
 日比谷線「広尾」駅近くに銭湯がありましたので、そこに通いました。広尾の商店街の一本入ったところに銭湯がありました。


 その下宿を出て渋谷区東というところに住みました。世間では「風の谷のナウシカ」のテーマ曲を歌った安田成美が売れ始めていました。家賃はトイレ共同で風呂なしの27000円です。近所に銭湯がありました。


 ペンタスタジオで買った1万円弱のエレクトリック・ベースを銭湯への道すがら、電信柱の傍らに「ご自由に」と書いた紙をセロテープで貼って置いときました。
 銭湯の帰り、見てみましたらベースはもう無くなっていました。