昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

風呂

 昭和30年代前半、赤坂表町の二階に住んでいたYさんと親しくしていました。
 Yさんは中小企業の社長さんのお妾さんでした。社長さんがYさんなのでお妾さんもYさんと呼んでいましたが、ぼくは小さかったのでYさんと言えずTちゃんと読んでいました。


 Tちゃんの本名はSさんで福岡県出身とのこと。Tちゃんと一緒に風呂も入りました。Tちゃんは母より1、2歳上でしたが、身体は浅黒く肌は滑らかでした。ぼくも3歳ぐらいでしたから何も気にしなかったです。


 Tちゃんの顔立ちは瓜実顔で鼻が高く整っていましたが、正妻顔ではありませんでした。女優で言うと「めし」の島崎雪子にちょっと似ています。原節子の妹で義兄の上原謙と仲良く大阪見物する役柄です。
 あとメゾ・ソプラノのセーナ・ユリナッチにも似ています。ユリナッチはTちゃんと同世代です。



 赤坂表町のうちを売り払ってからは音信不通になっていましたが、昭和50年ごろTちゃんが世田谷の家に訪ねてきました。母が探し出したようです。大田区のとんかつ店で働いているようでした。
 そのときぼくは何となく顔を合わせませんでした。Tちゃんだってお妾さんからとんかつ店の店員ではきまりが悪いかもしれないと思ったからです。



 昭和34年ごろでしょうか、5歳ぐらいで叔母と一緒に風呂に入りました。うちのだったか、母の実家だったかうろ覚えですが、とにかく恥ずかしかったです。叔母は18歳ぐらいです。叔母の裸を見るのが恥ずかしいのではなく、自分の裸を見られるのが恥ずかしかったのです(笑)。
 風呂の中でも湯船に入る時も終始うつむいていました。叔母はすぐ判ってあっち見てるから湯船に入りなさい、とか言ってくれました。
 平成生まれみたいな感性ですね。

ジョルジュ・ローデンバッハ(ローデンバック)

 昭和59年ごろジョルジュ・ローデンバック(ローデンバッハ)の『死都ブリュージュ』窪田般彌訳を読みました。読んだのは岩波文庫でしたが、後年単行本(箱入り)を古書で買いました。


 ローデンバッハの名で有名な詩「黄昏」は、
 夕暮がたの簫(しめ)やかさ、燈火(あかり)無き室(ま)の簫やかさ。・・・
                              (上田敏訳詩集より)
 ですが、ローデンバッハは知らなくても、詩の調子はどこかで聞いたことのあるフレーズです。


 『死都ブリュージュ』は作曲家コルンゴルトによってオペラ「死の都」になりました。舞台のDVDもありますが、モノラルの歴史的録音のCDでハイライトのアリアを聴くと世紀末の雰囲気が味わえます。
 ジョルジュ・ローデンバックはベルギーの詩人です。ブリュージュの佇まいをじかに見て味わいたいと長年思っていましたが、病気になったので絶望的です。

同潤会アパート

 祖母は戦時中、日本橋室町の「にんべん」の隣りに住んでいました。
 祖母の従弟のH雄と従妹たちが転がり込んできて危うく乗っ取られそうになりました。苗字が同じだったためです。印鑑登録を祖母の名前も入ったハンコで作り直し、難を逃れました。祖母には被災者居住権があったのです。


 その被災者居住権で引っ越すことを検討しました。その際挙がった物件には代官山や表参道の同潤会アパートも含まれていました。どちらも渋谷区ですが、昔は豊多摩郡と呼ばれていました。大正や昭和初期の生まれの人なら「渋谷なんてぺんぺん草が生えてたよ」と言ったりします。


 六本木6丁目の土地も候補に挙がりました。後にメイ牛山のハリウッド化粧品になるところです。戦後間もないころ、麻布材木町から六本木になったところです。


 そうこうしてる時に赤坂表町の物件が出てきました。戦前日本生命の営業で赤坂區は馴染みがあったので、祖母は赤坂に住むことにしたのです。

天国注射の昼

 昭和58年(昭和56年か57年と思いましたが検索したら58年でした)に日比谷野音に出かけました。日比谷公園の中に入ったあたりで、工事の音が聞こえてきました。どこかで工事しているんだなあと思いました。
 野音に近づいていくにつれ工事の音が大きくなってきます。おかしいなと思いつつ野音に入ってみると、ちょうどフリーインプロヴィゼーションの最中でした。小物を叩いたりソプラノサックスやクラリネットやさまざまな打楽器で間合いよく音を出していました。小物を叩く鈍い音をマイクで拾ってPAで流していたのです。それが会場の外では工事の音に聴こえたわけです。
 そのパフォーマンスの後には金粉ショーもありました。


 別の日、代々木公園脇のホコ天で天国注射の昼で見たフリーインプロヴィゼーションのパフォーマンスを見ました。メンツは確かではないですが、同じような人たちだと思います。竹の子族たちとちょっと離れたエリアで演奏していました。


 フリーインプロヴィゼーションのグループ名はわかりません。日本人のインプロヴィゼーションとして日本人らしい間合いの良さがありました。変にフレーズが込み入ってないというか音と音の間がいいです。
 ざっくり言うと現代音楽のモートン・フェルドマンのフリーインプロヴィゼーション版のようなニュアンスです。

ラーメンの屋台

 赤坂表町時代です。昭和30年代後半だと思います。たまたま晩ご飯を用意していなかったのか、外出から帰ってきたのか、記憶はおぼろげですが、ラーメンの屋台のチャルメラが聴こえました。
 あそこに住んでいてチャルメラの音が聴こえることはそう多くはなかったと思いますが、そのときはタイミングが合ったのです。「ピラリーラリ・・ピラリラリラー」うわっ!本物のチャルメラの音だ!とドキドキしました。


 じゃあラーメンでも食べようか、ということでぼくと母とでお勝手から外に出ました。なだらかな坂の途中で屋台が佇んでいました。三人前注文して二人前を運び残りの一人前をラーメン屋さんがお勝手まで運んでくれました。ラーメンのどんぶりは後日引き取りに来たんだと思います。
 小学校低学年だったぼくは日ごろラーメンは食べませんので、ああこれが本物のラーメンの味かと思いました。それまでラーメンというとチキンラーメンしか食べたことがありません。
 妹は小さいし、祖母はある物で適当に済ませたのだと思います。