昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

おふくろの味

 表町時代はまだちゃぶ台で食事していました。
 ピンク色のでんぶと味噌ピーが食卓に出てくるとまたかとがっかりしたのは子ども時代です。でんぶは甘味がほとんどでやや塩味も混じってる感じです。味噌ピーも甘さが表に出ますが塩味も少しあったと思います。


 でんぶで検索したら「田麩」と出てきて魚肉の佃煮だそうです。何の栄養があるんだろうと子ども時代思っていましたので意外と栄養がありそうです。
 味噌ピーも味噌は大豆ですから捨てたもんじゃありません。遠足の弁当にこの二つが入っていると手抜きだなと思っていました。


 今となって栄養価も分かって懐かしさも加わればまた食べてみたいなと思います。


 母は何もない時はにんじんの千切りとかさやえんどう、春菊の天ぷらを揚げていました。またかと思うぐらい何度も食べました。でももう二度と食べられないと思うと精進揚げもご馳走だったなとつくづく思います。


 納豆は意外と回数は少なかったです。今みたいにパックでないですから。全部藁に包まれていました。藁をほぐして中身を出してということが60年間でおそらく数回だったと思います。


 フライは肉屋で買ってくるカツとかメンチとかコロッケぐらいです。カツが30円~70円、メンチは15~20円、コロッケは10円ぐらいです。これは昭和30年代半ばです。


 餃子とかハンバーグを自宅で初めて食べたのは昭和43年ぐらいだと思います。
 餃子の作り方は父の従妹で日劇のダンサーA子さん、に。ハンバーグの作り方は母の妹つまり叔母から教わりました。
 それ以前は餃子よりシュウマイ(売っているもの)のほうがひんぱんに食べていました。
 母は大人数の家族の食事の支度も嫁入り前にやってましたから、煮物とか和の料理は得意ですが、現代的な料理は昭和40年代になって教わったのです。


 すき焼きは牛肉ではなく豚肉中心ですw。卵焼きは子ども時代は甘い、成長とともに塩味に移っていきました。
 豚肉のしょうが焼きが弁当に入るようになったのは昭和42年以降です。

アマガエルに教わったこと

 急にアマガエルが触りたくなったことがあり、ネットで検索したら通販があったので、試しに注文してみました。


 五匹買って恐る恐る宅配便の段ボールを開けてみるとちゃんと生きたまま届きました。うちにあった安っぽいプラスチックの水槽に取りあえず入れました。後日ちゃんとした水槽を買うため葛西のほうへ出かけたり、エサは生きたものでないとカエルは食べないので生きたエサ(虫です)を中野に買いに行きました。


 子どものころにアマガエルを触ってカワイイなと思っただけで、そんな安易な考えで飼い始めたのですが、意外と難しいことが後から分かったのです。金魚のエサでも与えておけばいいと軽く考えていたのです。
 金魚用のキレイな白い石、大きめの石は拾ってきたもの、枝とか葉っぱとか花屋で分けてもらって水槽内は見栄えが良くなりました。
 水たまりみたいな場所も造り、時々スプレーで水を吹き付けたりしました。でもアマガエルはエサをなかなか食べず水槽のガラスに引っ付いたままじっとしています。


 運動不足になるといけないと思い、風呂の湯船をキレイに洗い、水を張ってカエルたちを放しました。カエルたちは開放されたようにグングン泳ぎました。油断をすると湯船から飛び出しそうになりました。


 やっぱり逃げたいんだなと思い、水槽に戻すときチョット可哀想に思いました。


 ある時生きた虫を入れるため上ぶたを開けた際、水槽から一匹飛び出しました。


 オーディオラックの上に水槽を置いていたのですが、カエルは裏に落っこちました。CDプレーヤーとかアンプとかのコードがもつれているラックの裏です。ホコリまみれの床に飛び降りたのでカエルも面喰ったようでした。どうしようか戸惑っているようでした。


 とにかくカエルを捕えようと、腕がホコリまみれになる覚悟でラックの裏のすき間に腕を潜り込ませ、下の床に手を伸ばしました。
 そうするとカエルのほうからひょいと手の中に飛び込んできたのです。そのままそーっとリフトのように腕を上げました。そーっと水槽に戻しました。


 その時感じたのは、カエルから見れば巨大な敵の手中に飛び込むのはずいぶんな勇気がいるだろうな、と。いや人間の狭い料簡を超えた仏心のようなものがカエルの中に在るのではないか、とさえ思ったのです。


 湿地を好むカエルにとってホコリまみれの床は地獄に感じたのでしょうか。地獄から脱出するのに敵の舟か味方の舟か考えている暇も無かったかもしれません。
 生き物に疎いぼくでもカエルが湿地を好むことは分かっていましたから、水槽に戻して体にまとわりついたホコリを洗い流してやりたいと思いました。


 生き物の中でも一度逃げ出したものは近づくだけでさらに逃げるのがほとんどですが、瞬時に手の中に飛び込んできたカエルは敵だろうが相手を信じる心の広さと言ったら大げさですが、本能の許容度の広さにびっくりしました。


 この仏のような行動にさすがに申し訳ないと思い、天然の池に放そうかと思いましたが、それでは昨今のペット(外来種など)を放して生態を乱したりするペット愛好家と同じで無責任な行為です。
 結局五匹とも死なせてしまい、申し訳ない、ごめんなさい、と感じています。

足の指の関節

 ぼくは足の指の関節が足りません。
 検索してみましたら、足の小指の関節が1つなのは日本人に多いそうです。外国人は2つあるのが多いみたいです。(指の根っこは数えません)それは退化なのか進化なのか、判別は難しいですけど。


 ただ、ぼくの場合は小指ではなく人差し指(手で言えば)、つまり親指のとなりの指の関節が1つしかないのです。


 バブルのころ、親指の爪をケガしました。京王沿線のK整形外科にかかってレントゲンを撮ったら、


「あなたの足は親指のとなりの指の関節が1つ足りませんね」
と突然院長に言われました。
「ええーっ!?そんなことってあるんですか?」
「だいじょうぶ、私もそうですからw先祖が一緒かもしれませんよ」
 院長さんの一言でホッとしましたが、ビックリしたのも事実です。


 検索すると小指のことはありますが、親指のとなりの指のことはなかなか出てきません。レントゲン撮影で言われたら疑問の余地はありません。写真をぼくも見ましたから嘘八百ではないわけです。

 足の指を触ってみると関節の痕跡みたいな角張った感じはありますが、実際には指が曲がりませんので、関節の機能はないことが分かります。例えてみれば人形の指が曲がらないのにスジが描いてあるのと変わりません。


 先祖が類人猿だとすればどういう土地柄で生きていたのか興味がわきます。


 ちなみに手の親指はジャコ・パストリアスと同じようにほぼ直角に曲がります。曲がるというのは反り返った時のことです。外側にという意味です。

カフェー キャフェ カフヱ

 宇野千代や林芙美子はカフェーの女給をやっていたことがあるんですね。
 宇野千代が話題になったころ存命していた祖母はくだらないと言っていました。宇野は明治30年生まれ、祖母は明治35年、林は明治36年。ほぼ同世代と言えます。


 宇野千代は女給時代に久米正雄、芥川龍之介、青山二郎、小林秀雄などと関係を持ったと豪語しています。ほんの数か月のうちに歴史に残るような作家、文人と関係を持ったのですから相当な腕と言わざるを得ません。


 宇野や林が女給をしていたのは大正中期及び大正11年ごろですから震災前です。永井荷風が銀座のカフェーに通ったのは震災後の昭和の初期だということですから会っていない可能性が高いです。


 ただ林は『放浪記』でもわかるようにダメンズウォーカーだった可能性もあります。作家志望のプータローを養ったりしています。男を手玉に取ってのし上がった宇野と対照的な印象です。


 銀座四丁目の交差点の角にカフェーライオンがあったと聞きました。向かいにカフェータイガーができて「虎と獅子」という歌謡曲までできたということです。


 今のキャバクラのように流行ったようで、大正15年生まれの母は子どものころ大きくなったらカフェーの女給になると答えていたそうです。ただ昭和10年ごろにはカフェーは下火になったようです。


 祖母はカフェーではなくカフエと言っていました。もしかしたら大正の中期はカフヱと表記していたかもしれず、それを音にするとカフェではなくカフエということになります。


 本元パリのキャフェは女給はおらずギャルソン(ボーイ)だけですから東京のカフェーとだいぶ違っていました。東京は酌婦の意味もあるので給仕でなく女給なんですね。でも遊郭や吉原と区別するためにバーとかキャバレーという呼び方をするようになりました。また大阪から来たカフェーの文化はもっと濃厚なサービスだったため東京のカフェーは名称を変えたとも聞きます。
 ただ「巴里祭」(1933年)という映画では女性の給仕が主人公で、この場合女給とは意味合いが違います。

フュージョンの盛衰

 70年代に花開いたフュージョンですが、60年代からジャズロックと呼ばれ、そののちクロスオーバー潮流になってフュージョンとして定着されました。


 個人的にはフュージョンも70年代半ばまでで、それ以降はECMジャズとかフリージャズに興味が移っていきました。80年代はもうフュージョンを積極的に聴くことも減りました。


 80年代後半下北沢北口の地下の喫茶店「シャノアール」で本を読むこともあったのですが、そのころもフュージョンが流れていたと思います。ただ80年代初頭テクノが内外で流行りましたのでテクノもかなり混ざって流れていたかもしれません。


 90年代には「ドトール」とか「ベローチェ」等カフェも増えてきましたので、「シャノアール」型店舗の喫茶店は希少価値のあるものになっていたと思います。


 90年代になって下北沢の街が懐かしく思い、夕方自転車でぶらりと出かけて「シャノアール」に行くことも何度かありました。座席では客のざわめきにまぎれていましたが、トイレを借りるとBGMのフュージョンだけが天井から聴こえてきます。その瞬間、70~80年代を想い出していました。「シャノアール」は粘り強くフュージョンを流していたのです。


 下北沢南口の「ダイエー」は現在違うスーパーになりましたが、「ダイエー(もしくは忠実屋)」のころ、ウィンドブレーカーを買ったことがあります。うす緑色の冴えない服でしたが、タグのところにはmade in north koreaと印刷されてありました。値段はたぶん4980~5980円ぐらいと思います。
 その当時はまだ北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国とニュースでは呼び、現在みたいに北朝鮮とだけ言うようになったのはここ20年ぐらいでしょうか。


 ワゴンセールには「スラックス クリアランス」のポップがあり、館内はフュージョンが流れています。スラックス、クリアランス、フュージョン、なんて昭和なキーワードでしょうか。
 売り場はガラーンとして万引きGメンがひとり歩いているだけです。「ダイエー」の前の「忠実屋」時代に店員のバイトをしたことがあるので万引きGメンの女性は知った顔です。


 スラックス、クリアランス。フュージョンのお決まりのリズム、ハーモニー、ベースラニング、お決まりのサックスのアドリブ、ギターのアドリブ、とてもオシャレとは程遠い80年代を想起したのです。