カフェー キャフェ カフヱ
宇野千代や林芙美子はカフェーの女給をやっていたことがあるんですね。
宇野千代が話題になったころ存命していた祖母はくだらないと言っていました。宇野は明治30年生まれ、祖母は明治35年、林は明治36年。ほぼ同世代と言えます。
宇野千代は女給時代に久米正雄、芥川龍之介、青山二郎、小林秀雄などと関係を持ったと豪語しています。ほんの数か月のうちに歴史に残るような作家、文人と関係を持ったのですから相当な腕と言わざるを得ません。
宇野や林が女給をしていたのは大正中期及び大正11年ごろですから震災前です。永井荷風が銀座のカフェーに通ったのは震災後の昭和の初期だということですから会っていない可能性が高いです。
ただ林は『放浪記』でもわかるようにダメンズウォーカーだった可能性もあります。作家志望のプータローを養ったりしています。男を手玉に取ってのし上がった宇野と対照的な印象です。
銀座四丁目の交差点の角にカフェーライオンがあったと聞きました。向かいにカフェータイガーができて「虎と獅子」という歌謡曲までできたということです。
今のキャバクラのように流行ったようで、大正15年生まれの母は子どものころ大きくなったらカフェーの女給になると答えていたそうです。ただ昭和10年ごろにはカフェーは下火になったようです。
祖母はカフェーではなくカフエと言っていました。もしかしたら大正の中期はカフヱと表記していたかもしれず、それを音にするとカフェではなくカフエということになります。
本元パリのキャフェは女給はおらずギャルソン(ボーイ)だけですから東京のカフェーとだいぶ違っていました。東京は酌婦の意味もあるので給仕でなく女給なんですね。でも遊郭や吉原と区別するためにバーとかキャバレーという呼び方をするようになりました。また大阪から来たカフェーの文化はもっと濃厚なサービスだったため東京のカフェーは名称を変えたとも聞きます。
ただ「巴里祭」(1933年)という映画では女性の給仕が主人公で、この場合女給とは意味合いが違います。