昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

自動車ショー

 父が日産系の新聞社に勤めていた関係で、晴海の自動車ショーに二度出かけたことがあります。


 一度めは昭和32年だと思います。3歳のぼくだけぽつんとDATSUN(ダットサン)をバックに記念写真を撮りました。どこかに1957と印字されていました。おそらくDATSUN110型系だと思います。


 3~5歳にかけて、父はおみやげに日産の自動車の模型を持って帰ってきました。宣伝のための新車の模型です。今考えれば貴重なものだと思いますが、子どもですから手でゴシゴシ走らせる動作を繰り返すうち10日間ぐらいで車輪をダメにしてしまいました。


 二度めの自動車ショーは7~8歳になっていました。昭和36~37年ごろですね。半ズボン姿で風船を持って父と並んで記念写真を撮りました。たぶん関係者かカメラマンのAさんが撮ったのでしょう。


★自動車ショー歌/小林 旭



 プロカメラマンのAさんは表町のうちに来て記念写真を撮ってくれたことがあります。妹が赤ん坊で写っていましたから昭和35年ごろです。写真の大きさはブローニー版です。6×6か6×45だと思います。撮影時フラッシュを焚いたのでプロっぽいなと子ども心に思いました。


 撮られるとき、父の膝の上で抱えられるポーズを取ったのですが、後にも先にも日常で父に抱えられることは全く無かったです。

インスタントラーメン

 台町のころです。昭和38年ごろというと、世間ではもうインスタントラーメンが十分普及していたと思います。


 うちではチキンラーメンを時々食べていました。ただ母が作る場合キャベツや何かをちょい足しして鍋で煮たりします。平成の初めのころチキンラーメンの懐古的なブームが来たときは逆に熱湯を注ぐだけ、というのが見直されたような印象を持ちます。



チキンラーメン1963


 それはともかく、昭和38年ごろに戻りますが、たまたまチキンラーメンではなくE(某メーカー)のワンタンメンを母が買ってきていたのです。それを作ってくれてぼくと妹は食べました。


 食後二人とも気持ち悪くなりました。少し吐いたと思います。赤坂のS内科にかかったところ、もう一生インスタントラーメンは食べちゃいけないと言われました。この間そば中毒の女子中学生がそばを食べて死んじゃいました、と言いました。


 自家中毒だったのです。ワンタンメンを食べる前に二人ともチョコレートを食べていました。それで自家中毒をうちうちでチョコラーメンと呼ぶようになりました。


 Eに電話したところ社員二人でお詫びにうちを訪ねてきました。大きめの袋に何か商品を入れてきました。

ブロマイド

 祖母は元来歴史物語や時代小説好きでしたが、歌舞伎や文楽も大好きでした。演目のクライマックスシーンを30以上諳んじていました。金庫に勤めていましたから、毎年のようにチケットを用意してお得意さんを歌舞伎座や新橋演舞場に招待していました。祖母の趣味も満足させていたようです。

 たくさんのお得意さんからもらった歌舞伎役者のブロマイドが祖母の遺品から出てきました。


 でも映画俳優の片岡千恵蔵や長谷川一夫、新派の花柳章太郎も好きでした。むしろ中村勘三郎(先年亡くなった人の父親)の演技はくどいと評していました。青山で都電に乗っているときに守田勘弥を見かけたと言っていました。勘弥の舞台も前のほうの席で見たことがあります。

 どこでもらったか、おそらく料亭か見番でしょう、日本舞踊の吾妻徳穂さんのスナップ写真が遺品に混じっていました。この写真は祖母の生前も見せてもらった憶えがあります。船上かどこかでタバコの煙りをくゆらせているのです。後年写真集で見かけた、昭和29年にアメリカ公演に出かけた際のスナップに一致します。

赤坂見附駅

 地下鉄「丸ノ内線」は大正時代に計画が立てられて、だいぶ紆余曲折があったようです。検索してみましたら「赤坂見附」から乗れるようになったのは昭和34年のころだったようです。


 「銀座線」はすでに「赤坂見附」駅が利用できていました。今度「丸ノ内線」ができるけれど、「銀座線」より音が静からしいよという触れ込みでした。実際通ってみると「銀座線」よりむしろうるさかったです。


 「赤坂見附」駅は現在もそうですが、昭和34年当時から「銀座線」と「丸ノ内線」がホームで乗り換えられました。ある時「赤坂見附」駅で「銀座線」に乗り込みました。するとちょうどホームの反対側に「丸ノ内線」も来ていて扉が閉まるところでした。
 「ギャーーーッ!!」という子どもの悲鳴が聞こえたので、そちらを見るとぼくと同年代の子どもが電車の扉が閉まるときに腕を挟まれたようです。
 そのシーンがあまりにもショックだったので、長期間丸ノ内線は恐怖の的でした。

都電、バスの思い出

 青山通りは昭和38年ごろ拡幅されたと思います。それ以前、表町から渋谷に出かけるときは都電に乗って行ったと思います。


 青山六丁目という停留所があって、その付近に青山操車場が見えました。門があって車両が並んでいるのを電車内から眺めて子ども心に物々しいと感じました。
 現在は青山劇場ですか、こどもの城があってけっこう目立つスポットになりました。地下鉄「表参道」駅からも近いです。子どものころは「神宮前」という駅でした。戦前は「青山六丁目」という駅名だったようです。


 近年骨董通りなどと呼ばれている道路へは8番線(長らく6番線と思い込んでいました)の都電が曲がって行き、新橋駅行きと書いてありました。これは六本木を通ったと思います。現在でも路線バスで残っていると思います。


 幼稚園で同級だったWさんは骨董通りの交差点で都電を乗り換えていたのかなと思います。平河町から乗ってぼくは表町で降りてしまいます。当時彼女は青山高樹町に住んでいました。ぼくはアッコちゃんと呼んでいました。可愛い子だったので、真ん前に立つようにしていました。1歳上の青山の瀬戸物屋の息子が横から押してくるので思わずぼくは「君もこの子が好きなの?」と言いました。乗客の大人たちは笑っていました。



 渋谷でよく見かけたのはトロリーバスです。乗った覚えはほとんど無いですが、池袋駅行きのトロリーバスが駅から明治通りを走っていくのを何度も見かけました。