昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

昭和な商店街

 一ツ木通りのお肉屋Iさんと豆腐店Iさんあたりから赤坂見附方向に降りると花屋さんがありました。
 ここは有名歌手Sの名義だったと思います。弟さんが経営していたとどこかで見ました。
 数年前に売却してSは長者番付の上位に浮上しました。今はビルが建って1階はカフェになっていますね。


 その並びに有職寿司という店、うす皮玉子で五目すしを覆ったような甘口のおすしを売っていました。うちも時々買っていました。読み方が難しい店名です。昭和か平成のころに路地に移転して、その後閉店したと聞いています。デパートに店舗が出ていたころは時々母が買ってきました。


 このあたりに信用金庫の支店があったり後年ATMになったりしたように思います。昔は大きめの八百屋がありました。改装してTスーパーになっていた時期もあります。


 一ツ木通りの有馬写真館では赤ん坊の時や七五三の時に記念写真を撮ったりしました。お肉屋Iさんでは肉だけでなくとんかつやコロッケを買っていました。


 隣りの豆腐店が早い時期に喫茶店などの経営をしていましたが、お肉屋さんは平成まで頑張っていたように思います。

お産婆さん

 昭和35年の夏に妹が生まれました。表町の家です。家というのは自宅出産だからです。お産婆さんが来てくれました。統廃合する前の赤坂小学校の近所に住んでいた家政婦会々長Tさんが自らお産婆さんの役目をしてくれました。Tさんの娘さんは宝塚出身の女優Sさんです。妹が生まれたのは深夜の2時ですが、前の晩は父と一緒に寝ました。陣痛が始まったのでしょうか、父は寝床を離れる時ぼくに
「部屋を出てはいけないよ」と告げました。ぼくは5歳から一人で寝ていました。だからこそ妹ができたんだなと今思えば納得がいきます。
 妹の名前はぼくが付けたようなものです。永田町と霞が関と溜池と虎の門に囲まれた「三年町」という町に住んでいた幼稚園の同級生YさんがS子という名前でした。その子は色白で清楚だったので印象に残っていました。扇風機が回っている部屋で両親が妹の名前を考えていた際ぼくはその子の名前を言ってみたのです。字は違いますがS子になりました。
 実はぼくも自宅出産で生まれました。やはりTさんにお世話になりました。赤坂田町か新町か、Tさんの近所のK畳店の息子さん、この人は金庫に勤めていましたが、の仲人のようなことを祖母はやりました。

セールスマン

 台町の家にはセールスマンがよく来ました。化粧品のメーカーKから若い女性のセールスウーマンが来て化粧水やクリームを売り込んだりされました。母は少しは買っていたと思います。
 一度ムショ帰りの人が押し売りしている場面に遭遇したことがあります。玄関のところでゴムひもを出して粘っているのです。いや、ムショ帰りかどうかは判りません。何となく子どもでも押し売りと判る雰囲気を漂わせていたのです。

 百科事典も売りに来ました。ぼくの部屋に辞典は置かれました。ぼくはそれを読まずに他のことに使用しました。雑誌か何か忘れましたが、白人女性のヌード写真を切り抜いて百科事典の中に差し入れていたのです。誰も百科事典など読まぬだろうという予想の素に隠していました。


 ちょっとましなのは『源平盛衰記』の見事な絵入りの豪華本を売りに来た人もいました。出版社は判りません。母はセールスマンの熱意に負けて買ったのですが、祖母が読んで「うわぁ、面白い」と喜んでいました。

一ツ木通り界隈

 母と一ツ木通りの商店街で買物をした後、六地蔵尊入口の隣にあった果物屋でグリコのキャラメルを買ってもらうのが楽しみでした。といっても素通りすることのほうが多かったです。キャラメルのおまけが目的だったので、10円のではなく20円のが欲しかったからです。(値段が違ったらすみません)
 それは10円と20円では遠慮の度合いが違います(笑)。うちの金銭感覚がおかしかったのか、それともぼくらの世代の特性なのか、やたらと親にねだることはしにくかったです。もしかすると当時の価値観で20円のお菓子は10円のお菓子の2倍の説得力が必要だったかもしれないです。

 円通寺坂に通じる道にはCという水道工事店(丹後町)があって、そこの奥さんKさんと祖母は親しかったです。うちが世田谷に引っ越した際は残念がり、数年に一度世田谷まで訪ねて来ました。Kさんはぼくに車の免許を取らせるべく大崎の教習所を紹介してくれましたが、交通の便が悪くそこの教習所の教員と相性が良くなかったこともあり、免許を取りそこないました。
 その道路にはMという八百屋さん(一ツ木町)があり、母は仲良くしていました。一ツ木通りに近い路地にはM君の家(丹後町)がありました。M君とは中学で同級になりました。彼のうちは牛乳屋さんでしたが、昔は一ツ木通りに面したところでかまぼこ店を営んでいたそうです。
 
 一ツ木通りには金松堂書店がありますが、昭和の一時期赤坂通り沿いの赤坂新町に支店がありました。他に平成のころまで3丁目あたりにも支店はあったかもしれないです。新町のほうの小さい店で立ち読みしたのは自動車に夢中だったからです。プリンスグロリアの独特の睨みつけるようなフロントデザインが好きでした。ベレットGTよりコロナハードトップが好きでした。いすゞだったか小型車にも魅了されました。外車が元のヒルマンの曲線のラインも好きでした。

流線形

 昭和40年に小学5年生になってクラス替えがありました。担任も女性のO先生に変わりました。ある体育の時間に50メートル走の計測がありました。O先生に握られたストップウォッチによる計測です。
 同じグループのタケちゃん(Hくん)に負けるわけがないのに、勝てません。タケちゃんは8.7秒、ぼくは9.2秒。あれあれ、おかしいなと思っていろいろ考えました。
 とっさに成績優秀なIくんに相談してみたところ、走る足幅を狭くすればいいんじゃない?とアドバイスされ、さっそく試すことにしました。Iくんは元赤坂に住んでいて、のちに東大法学部に現役合格、弁護士になった人です。
 Iくんの助言のおかげで三度めの計測は良い結果が出ました。タケちゃんに勝てたのです。ぼくのタイムは8.5秒です。走り出す前にぼくは軽いジョークを飛ばしたのです。タケちゃんに、
「タケちゃん、流線形だからなぁ」
 タケちゃんの額は出っ張っておらず新幹線ひかり号みたいだったので、流行りの「流線形」という言葉を投げつけました。タケちゃんは笑ってしまって本気が出せませんでした。
 なおリレーの選手に選ばれたのは7.8秒のFくんと7.9秒のホッサンでした。チャーリーは5年生からクラスが違っていました。