昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

三輪車の思い出

 表町のころです。隣りはEさんの屋敷がありましたが、そこは売り払われて取り壊しの工事が始まりました。のちにCマンションが建てられるわけですが、たまたま工事のためにトラックがうちの門のところにバックして来て、付近に置いてあったぼくの三輪車をつぶしてしまいました。
 母が工事関係者と交渉していくらかの弁償をしてもらったと思います。
 その直後に何かの折に記念写真を撮ってもらったのですが、道具としての三輪車が無いので思案の結果向かいのNさんのM夫君の三輪車を貸してもらうようにお願いしました。
 1歳下のM夫君の三輪車を借りることが出来、三輪車に乗ってもっともらしく笑顔で撮った写真を見るたびに三輪車借りたんだよなぁと申し訳なく思っていました。
 NさんのS夫君とM夫君は4歳離れた兄弟です。3人で一緒に遊ぶと微妙なところで兄弟が組みます。子ども心にフェアじゃないと感じ、ぼくのほうから誘うことはほとんど無くなりました。それまでは、お向かいの家の前で「S夫くん、遊びましょ!」「M夫くん、遊びましょ!」と大きな声で誘っていました。思い出してみると昔の子どもは素朴というか直接的なお誘いをしていたなと感じます。

行商のおばさん

 年代はさかのぼりますが、表町のころです。千葉のおばさんが時々来ました。行商のおばさんが千葉から来るのでそう呼んでいました。大きめの籠を担いで野菜を売りにくるおばさんです。
 歩いて3分ぐらいのところに八百屋さん(丹後町)はありましたが、にんじんとかじゃがいもとか大根とか玉ねぎなどは母も重かったのでしょう。現代でこそママチャリの前と後ろのカゴを利用して野菜を買う人は多いと思います。昔は一般家庭で買物に自転車を使うことは珍しかったと思います。
 きっと最初は千葉のおばさんが飛び込みでやってきたのでしょう。母も千葉のおばさんと話すのが楽しかったのかもしれません。ちょくちょく買物をしていました。
 母の実家に遊びに行くとき、常磐線の電車内でたまたま行商のおばさんたちを見たことがあります。紺色の布に覆われた大きい籠を車両の床に置いていました。聞くところによれば2往復することもあったそうです。
 現在、行商のおばさんが存在するか確認できませんが、消費者にとって便利なシステムだったのではないでしょうか。もっとも本人たちの大変さは想像を超えていたでしょう。

久しぶりの高橋是清公園

 台町に住んでいたころです。赤坂とか永田町あたりに住んでいるクラスメイトがうちに遊びに来ました。7、8人は集まったと思います。屋内では思うように遊べないので、みんなで外に出かけることにしました。
 高橋是清公園は台町の家から歩いて7分ぐらいかかります。薬研坂を下りて中腹の魚屋Gの路地を曲がったか、坂の谷間で左折したかは記憶があいまいです。自家所有の庭に招待するような気分で、ちょっと自慢げに高橋公園を案内しました。
 公園内の中ほどに池のような形の石庭があり、井戸の跡はお風呂の湯船みたいに入れます。馬の形を模した岩(青石?)のオブジェに跨ったり、橋を渡ったり、クラスメイトたちは珍しいものを楽しんでいました。幼いころ馴染んでいた公園ですし、怖い体験も想起するところでしたが、台町に引っ越して以来遊びにくるのは久しぶりだったので、ぼく自身も楽しみました。
 家に帰って友だちもぼくも少しテンションが高かったのかもしれません。ぼくとハッサンは洋服タンスの扉に鏡が付いていたので、その前ではしゃいでいました。
 何かの拍子に鏡にヒビが入ってしまいました。
 きまりが悪くなったのかクラスメイトが帰るというので、ぼくも気まずかったのでみんなを送っていきました。帰ってから鏡のことを母にしかられました。ハッサンの家に電話して弁償してもらったかどうか今では覚えていません。

放課後

 あのころはのんびりした時代でしたから、塾通いなんてものは受験のためではなく、放課後クラスの友だちに会えるという軽い動機で行ったと思います。学校のような緊張感は無くリラックスタイムでした。
 赤坂新町のT君や一ツ木町のY君、同じく一ツ木町の甘味処立田野のIさん、ハッサンなどと赤坂六地蔵(浄土寺)の裏のM塾というところに通っていました。戦前に建てられたのか、そのころすでに古い木造建築の家で小母さん一人で塾を営んでいました。漢字の書き取りなど100問中98点ぐらい採れるちょっと簡単なテストばかりでした。
 敢えて塾を変える気もなく、さりとてM塾に居残るという強い気持ちもありませんでした。そういう時にハッサンが四ツ谷駅近くに光文という塾がある、というのでみんなそちらに移るなら自分も行こうと思ってM塾を辞めました。5、6人いっぺんに辞めたのでさぞかし小母さんはショックだったと思います。
 光文に通い始めたらクラスメイトの女子たち、Tさんやおかめも来ていました。赤坂より四ツ谷のほうが交通の便が良かったせいか、普段学校でもあまり口を利かない女子もいました。
 授業の休み時間、みんなで馬乗りをやっていました。おかめも馬の中に参加していました。ちょっと太めのハッサンが勢いよく飛び乗りました。その瞬間おかめが崩れ落ちました。おかめは足を骨折していました。彼女は学校も休むことになりました。


加山雄三

 小学校の放課後、中華料理店の娘Uさんと一緒に帰ったことがありました。Uさんは以前平河町あたりに住んでいたと思いますが、杉並に引っ越したというのです。のちに東急ホテルが建つところ、ちょうどそこは関東ローム層がはっきり見えるところで地層の研究者の注目する場所でしたが、その側道の坂を下りていきました。
 そのころ加山雄三の「お嫁においで」が流行っていました。ぼくは歌詞があやふやだったので、歩きながらUさんに訊きました。Uさんは2番も3番も完璧に歌詞を覚えていました。
 「蒼い星くず」と「夕陽は赤く」はシングル盤を持っていたので歌詞はバッチリわかります。でも新曲の「お嫁においで」はレコードも買ってないですし、テレビやラジオで聴くしか情報が得られません。
 やはり女子の集中力はすごかったなぁと、というかUさんに訊けばたいがい判るだろうと予想はしていました。なぜならUさんはぼくよりだいぶ背が高く体格が良かったからです。かなり大人びていました。
 赤坂見附駅に着いて彼女は地下鉄に、ぼくは一ツ木方面へ、バイバイと別れました。