昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

三分坂の先生

 赤坂の有名な坂、三分坂を下りたところにお寺があります。報土寺というので昔のお相撲さんが祀られているようです。その脇の路地を入っていくとS先生のお宅がありました。

 S先生は数学の先生なので実際には中学に上がって授業を受けたのですが、近所のせいもあって顔見知りでした。というのも先生のお嬢さんがぼくと同じ小学校でクラスは違いますが同学年です。

 その美人のお嬢さんと何かの折にいっしょに帰ってきたことがありますが、何を喋ったか思い出せません(実はぼくはおしっこを我慢しつづけて無口になっていました)。
 いつもと違うルートで「やらと」の大きな暖簾の前を通って薬研坂を下りて上って帰りました。

 中学のS先生で覚えているのは最初の授業で、オレンジジュースの円錐のグラスは三分の一の容積しか入らない、という話です。
 そのあと円周率を黒板に書き出しました。
 3.14159265358979323846・・・・・

薬研坂のパン屋さん

 3歳ぐらいの時、薬研坂の下った部分の道を横断してパン屋さんにおつかいに行ったことは前も書きました。パン屋は薬研坂沿いにありました。
 店名はパン屋さんらしい名前ではなく個人名でした。ひらがなの表記ですが、子どものときにどうしても読めない「ヰ」の字が使われていて口に出す言葉でしか表せませんでした。

 ぼくは言葉を覚えるのが遅かったのか、チョココロネ、そのころコロネなんてシャレた言い方をしたかどうか判りませんが、「にょろにょろパン」と言っていました。
 クリームパンは「グローブパン」です。母がちゃんと教えないので自己流で命名するしかありません。

 パン屋のおネエさんはそういう隠語みたいなパンの名前もちゃんと判ってくれたのだから、実に優しいひとです。年齢は二十歳ぐらいだったと思います。


 子どもが買う甘いものは駄菓子、みたいな時代に菓子パンなら食用染色剤(実際は使用してたんでしょうけど)を気にせず買うことが許された、大げさに言えばそんな思い出も感じます。

メンコ大会つづき 泉屋のクッキー

 先日、メンコ大会のことを書きましたが、メンコ大会は昭和36~38年です。なぜかというと、クラスメイトのメンコを総取りしてしまい、そこまではいいとして、表町のうちの勝手口のすぐ脇のカンカン(泉屋のクッキーの空き缶)=大事なものを仕舞っておくぼくだけの宝箱でしたが、そこに持って帰ったメンコを入れたっきり見るのもイヤになってしまいました。

 勝ったはいいが、我ながら後味が悪く思い出すたびにみんなの残念そうな顔が浮かんできてしまいました。表町から台町に引っ越したのは昭和38年ですからメンコの入ったカンカンは表町であるのは間違いありません。幼稚園ではなく小学生なので昭和36~38年なわけです。

 鉄腕アトムや8マンはメンコには間に合いませんでした(個人的にはです)。メンコの主役はうろ覚えですが、赤胴鈴之助、鞍馬天狗、笛吹童子、月光仮面、七色仮面、、ナショナルキッド、アラーの使者、サタンの爪などです。目にも眩しいヒーローばかり。持っているだけで百人力のメンコを我が手中に入れたのですから、うれしくないわけはありません。それでも友だちの気持ちを考えると、ああやってしまったと後悔の念が生じてきました。

ビートルズ メンコ大会

 昭和41年(1966年)にビートルズが来日公演を行いました。宿泊したのは永田町のヒルトンホテル、後年はキャピトゥル東急ホテルになりましたが、そこだと言われています。
 ヒルトンの真向いは空地になっていました。空地といってもアスファルトで整地されていたので駐車場用の土地かもしれません。

 その空地でメンコ大会をすることになり、ハッサンのうちにクラスメイト7、8人が集合しました。それが昭和40年ぐらいです。


 ハッサンはビートルズのレコードを何枚か持っていて、キレイなジャケットのレコードを見せてくれました。ぼくはメンバーのマッシュルームカットが目新しく感じられ、不良といったら大げさですが、外人にも不良がいるんだなと正直思ってしまいました。これは昭和の何年かはっきりとは覚えていませんが、ビートルズ来日より数年前だったと思います。

 メンコはぼくの一人勝ちでみんなが大事にしているメンコを独占してしまいました。昭和34、5年ごろから表町界隈の実戦で鍛えた技が発揮されたのです。


 途端に空気が悪くなり全員がぼくに圧力をかけてきました。普段おとなしいぼくもキレてうわぁーと怒りをまき散らしました。なぜかというとウソンキでお互いの実力を見極めた上でホンキの試合に臨んだ経緯があり、正々堂々とした試合です。クラスメイトたちは三々五々帰っていってしまいました。


 まぁ、今思えばメンコを返して何度も試合をしたほうがいい思い出になったのになぁと感じます。小学生とはいえ人づきあいがヘタだったと思います。


 キャピトゥル東急ホテルも数年前無くなりました。ハッサンのうちに遊びに行くとき、山王さん(日枝神社)の鳥居をくぐって山王飯店の裏道を自転車で通ると必ず調理場から漏れてくる中華料理の匂い、この匂いが昨日のように思い出されます。

赤坂の街の凋落

 8、9年前でしょうか。一ツ木通りの六地蔵尊(浄土寺)の境内で盆踊りがあったので、出かけていきました。暗い中知った顔はいないかそれとなくぐるっと歩き廻ってみました。ビールを無料で振る舞われ気分は上々でした。品のいい可愛らしいお婆ちゃま、知らないひとですが聞くと六本木から来たそうです。
 盆踊りも宴たけなわ、何となく知っている顔のオバサンがいたので声をかけました。

 オバサンはやっぱり文房具店のTくんのお母さんでした。子どものころ買物に行くと店に出ていたオバサンです。そのうちの息子とは幼稚園と小学校がいっしょです。聞くと息子は中学から私立の有名な学校に進学したそうです。
 バブルのころ地上げ屋が来て100億(ちょっと数字はうろ覚えです)で売ってくれとか言われたそうです。それでも売らず頑として土地を守り抜いた、ということです。現在でもおそらくけっこう立派なビルヂングに暮らしていると思われます。

 赤坂の商店街や何やかんやはバブルのころ地上げに遭ったり株で大損して不動産を手放さなければならなくなったり色々苦労したようです。その中には文房具店の大手チェーンもあったりします。信用金庫もおそらく一枚噛んで不良債権や何やかんやで迷惑もかけ自らも解体したと風の噂で聞きましたが、確かなことは判りません。祖母は昭和42年に退職しているので、バブルとは年代が離れています。