昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

「赤坂の姉妹 夜の肌」と東京オリンピック

 「赤坂の姉妹 夜の肌」という映画は貴重な映像が満載でぜひDVDかBlu-rayになってほしい作品です。発表は昭和35年(1960年)で東京映画・東宝です。
 60年安保のデモのシーンもあります。カラー作品なのでニュース映画などで見るいわゆる60年安保のモノクロ映像に慣れた目には違和感を覚えます。

 料亭の女将さん役の山岡久乃だったか女優のセリフに、
 「赤坂の町もオリンピックの後はどうなるものかわかったもんじゃない」
 というのが出てきます。
 昭和39年の東京オリンピックに向けて希望を抱いていた人が多い中、この時点で赤坂が時代遅れになる憂慮があったというのは、ぼくの世代にとっては衝撃です。
 赤坂見附の立体交差もまだ完成はしていなかったと記憶していますが、どうでしょう。


 祖母が金庫を辞めたのは昭和42年です。やはり赤坂の街の古き良き雰囲気はそのころから徐々に無くなっていったのだろうと思います。
 料亭政治が減ったことが大きな原因で、キャバレーやディスコは増えましたが、後年のバブルで街は滅茶苦茶になったと聞いています。

団塊世代の歌手たち 続

 小川知子は当時のカーレーサーFと恋仲と噂されていました。カーレーサーはお札になるぐらい偉い人の子孫でハーフかクォーターだったと思いますが、とにかく彫りが深くてスタイルも抜群のカッコいい人でした。モデルも兼ねていたように記憶しています。
 その人がレース中に事故で亡くなったのです。それ以来小川知子の出番も減ったように思います。

 ちょっと後に小川知子が歌番組に出ていた模様はYouTubeで見られるかもしれません。一時削除されましたが現在はどうでしょう。小川知子は歌っている最中に歌が詰まります。
 すかさずいしだあゆみが傍らに駆け寄り一緒に歌いますが、いしだは小川の歌の歌詞がうろ覚えのようです。
 もう片側には中村晃子もいて小川を励まします。プロフィールでは小川より若いはずなのにタメ口で励ますので後でプロフィールを調べたら2歳ごまかしていました。小川より1歳上なんですね。(小川は早生まれですから学年は中村と一緒ということですか)


 いしだあゆみもその番組で歌いながら泣き出します。小川知子が傍らに来て一緒に歌います。小川は歌詞が分かるので歌えました。


 このとき森進一が後ろからハンカチをいしだに渡すのですが、いしだがつきあっていたのは森?とも思えるシーンです。(これは番組内のコンピューター恋占いの影響?)


 いしだあゆみとショーケンの破局はだいぶ後だったですね。

 こういうエピソードでも小川知子は意外な言葉を漏らします。あのとき泣いたんですか?との問いに、私はクールだから悲しくないし涙も出ない、と。

 ではあのシーンはやらせだったのでしょうか?
 小川知子はクールなイメージなのでもしかしたらホントにそうかもしれないと思ったのですが、ぼくの勘違いでしょうか?

団塊世代の歌手たち

 小川知子のファンでしたが、その前後なんとなく気になっていたのは園まりでした。大人っぽい雰囲気で媚びた感じがなく、それでいて顔も歌声も可憐でいいなと思っていました。

 園まりは赤坂にも所縁があります。弟さん名義でお店を経営していました。


 平成になって売却し、現在は新しいビルが建ち1階はカフェになっています。チェーン店のカフェですが快適で、ぼくも十回以上利用しました。


 昭和40年代の映画「愛のきずな」では園まりが主演で藤田まことと共演しています。これがなかなか面白いです。サスペンスタッチのファンタジードラマです。
 園まりのゴーゴーダンスのシーンはぜひ見ていただきたい。脇役の男性もモンキーダンスを踊っていますが、モンキーそのものです。レンタルで見られると思います。

 奥村チヨは歌がうまく魅力的と分かったのはほんの数年前です。それまでは単に色っぽい歌を歌う人と思っていました。
 DVDには遊園地などで芸能ニュース映画用に撮った映像があるんですが、それは面白いです。奥村チヨのリズム感のよさを感じさせる何気ない振付ですが、カチッとした振付ではなく歌に合わせて流した感じのダンスがセンス抜群のものです。


 赤坂台町のD号室に住んでいたWさんは奥村チヨと同年代で雰囲気も似ていました。


 園まりの路線に近いのは西田佐知子です。西田佐知子のほうが年長で先輩ですが、ぼくが年を追うことでやっと西田佐知子の良さが分かったのは中3のころです。「くれないホテル」にハマりました。


 いしだあゆみも「ブルーライトヨコハマ」のころ好きでした。あと「夜明けのスキャット」の由紀さおりにも憧れた時期があります。

赤坂プリンスホテル

 


 中1のころ、流行っていた歌謡曲番組が生で行われているところを見ました。赤坂プリンスホテルのプールサイドでですが、堺正章とかが司会だったと思います。ということはグループサウンズはもう下火だったんでしょうね。
 肉眼では近くはなかったですが、通りの歩道からアイドルスター歌手たちが歌っているのが見えました。


初恋のひと.mp4



 ぼくは小川知子のファンでした。I君は黛ジュンのファンでした。


 小川知子とか奥村チヨの現在で言うところのプロモーションビデオ、あのころは芸能ニュースのための撮影かもしれませんが、だいたいどこかの遊園地か日比谷公園そしてこの赤坂プリンスホテルのプールサイドがロケ地として選ばれていたようです。


 中2の時クラスメイトのH君とA君とプリンスホテルのプールで泳いだことがあります。H君がどこかで招待券を入手したのです。H君は皮膚科医師に、A君は大学教授になりました。



 奥村チヨの「ごめんねジロー」がラジオから流れてきたころを思い出すとずいぶんと昔のように感じます。1965年ですから昭和40年です。GSブームは2年半ぐらいでしょう。小川知子のヒット曲は1967~68年ぐらいでしょうか。

恋泥棒  奥村チヨ  1969年


 奥村チヨは恋シリーズの「恋の奴隷」が大ヒットしました。「恋泥棒」のノリは最高です。
 「終着駅」は70年を過ぎていたと思います。

「運命」ベートーヴェン

 ジャジャジャ、ジャーン~♪っていうのがラジオから流れてきて、幼児のぼくでも意識していたのは昭和30年代前半です。


 ただしぼくが聴いたベートーヴェンの「運命」がフルトヴェングラー指揮とすれば1954年つまり昭和29年の5月録音のベルリンフィルのものではないかと思います。


 フルトヴェングラーによる「運命」の録音は1954年以前もありましたが、ネット上で聴く限り1954年5月の録音が一番しっくりきます。このライブ録音は以前CDでも持っていました。他の録音はテンポが少しずつ違います。


 3歳のぼくが指揮者の真似をしてジャジャジャ、ジャーンとやると母が喜びます。ジャジャジャの前は難しい表情をします。自分なりのタメを持たせたんです。テレビはまだ来ずラジオからだけの情報ですから想像の世界です。


 表町の家で幼稚園に通いだす前の幸せな時代でした。