昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

大正生まれの人々 続

 父は大正11年生まれです。幼少期に祖父母が離婚したので、親戚や他人に預けられました。祖母が引き取ったのは昭和8年ごろです。いわゆるシングルマザーなので学校の成績はよくても進学はままなりません。それが却って良かったのか、兵役に取られても内地の千葉で高射砲の計算班でした。
 サイン、コサイン、タンジェントを駆使して上空に飛んでくる敵機を狙って高射砲を撃つ、ための計算です。計算には計算尺を使っていたそうです。計算尺はぼくらの世代も少しかじりました。現代の若者は計算尺は知っているのでしょうか。
 兵隊時代は上官によるびんたは日常茶飯事だったそうです。上官に出すビールに自分らの小便を混ぜたりして仕返しをしていたそうです。
 父が脱走兵を見つけて上官に知らせたこともあったのですが、その功労で二等兵から上等兵に格上げされました。
 千葉ですから祖母も時々面会に出かけました。戦死はせず生還しました。でも戦時中、父が20歳ぐらいの時、青酸カリを持ち歩いていたそうです。なぜと訊いたところ、いつでも死ねるように、と答えが返ってきました。20歳というと昭和17~8年です。召集がかかる直前の複雑な心境だったのでしょうか。それ以上くわしく訊けなかったので真相はわかりませんが、かなり切羽詰まった日常を送っていたことが想像されます。

大正生まれの人々

 母方の伯母は大正10年に生まれて昭和29年に肺けっかくで亡くなりました。戦時中の空襲のときはみんな防空壕に逃げても、私はここにいると言って家の中にいました。そのとき防空壕が爆撃されて防空壕に逃げていた人たちが死んで伯母は助かったのです。
 戦時中、東京の会社に就職し英文タイピストをしていました。ただ地方訛りを咎められるのを非常に気にしていました。成績優秀で達筆な字を書いてハガキなどくれた伯母ですが、仕事で無理が祟ったのか肺けっかくになって13年間患い寝たきりでした。
 当時けっかくは死の病でした。高い経費のかかったストレプトマイシンを打ったり、山羊のお乳を飲ませたりして母の実家も相当お金を使ったようです。
 ぼくが生まれて半年後に亡くなったので、ぼくは全く記憶にありません。けっかくが移ってはいけないと赤ん坊を近づけなかったらしいのですが、ほんの数分だけ赤ん坊を見せたことがあるそうです。
 でもちょっと不思議なのは戦時中に英文タイプの仕事などあったのだろうか、という素朴な疑問です。
 浅草の元特攻隊の小父さんの話では海軍兵学校や陸軍士官学校では英語の授業があったそうです。全国的には英米語は禁止だったはずですが、海軍や陸軍に入隊する人が英文が読めなくては作戦も読み取れず役に立たないという理屈のようです。そう言われればそうですね。

下北沢 喫茶店

 下北沢の「アイリス」で友人Oと話す中に「自由とは何か」「天才とは何か」のような話題が上ってくると、Oはルソーにはこう書いてあるとかショーペンハウエルにはこうだったと語り出します。たいてい待ち合わせを向かいの白百合書店にすることが多くなり、そうするとお互い退屈せずに待てます。文庫、新書コーナーでOはルソーやショーペンハウエルを指してこれ面白いんだよと言っていました。そのつづきを喫茶店で話すわけです。これは昭和48年~53年ごろまでです。
 今考えると理想的な青春時代だったのかもと思います。会う友人によって話題が変わるので、いろいろな青春を過ごせたなと感じます。Oとはジャズやフュージョン、フォークロックの話はまったくしません。せいぜいクラシックとかイージーリスニングの話が上るぐらいで前時代的な感覚で接することが出来ました。
 後年、ぼくもショーペンハウエルなんかを読んだことがあります。まだそのころはショーペンハウエルと表記されることが多く、ショーペンハウアーの表記は年代が下ってからだと記憶しています。
 でも実際はマルキ・ド・サドとかバタイユとか文庫で読んでいました。Oはサドも読んでいて「アイリス」でよく話題に出ました。
 バイト先で出会ったMさんにも最初ショーペンハウエルを話題に上らそうとしたことがあります。

太地喜和子 続

 四ツ谷に荒木町(新宿区)というところがあります。
 大ざっぱに言って四ツ谷駅と四谷三丁目の交差点の間にある町です。
 近くに津の守坂という坂があります。高須藩主松平氏が摂津の守だったので津の守坂と名付けられたそうです。


 太地喜和子は一時荒木町に住んだようです。太地の女優半生記の本に載っていました。山田ハイツというところに住んでいた、と記されています。山田ハイツは実在しなかったみたいです。近所の住民で知る人もいないですし、不動産屋さんも知っている人はいません。


 ただこの町に住んでいる時代に歌舞伎俳優のNが通ったのは事実でしょう。太地とNの仲は40代以上の多くの人は知っています。
 荒木町は昔花街で津の守芸者と呼ばれる芸妓もいて、芝居小屋や料理屋でにぎわっていました。


 なぜ太地は荒木町に住んだのでしょうか、本人によると実母が荒木町に住んでいると聞いたから、ということになっていますが、真相は判りません。


 ばったり会うんじゃないか、そう思ったのでしょうか。そんなに広い町ではないのであり得ない話ではありません。だいいち育ての親や生みの親が別人かどうかも判りません。
 
 太地の作り話かもしれないのです。不幸願望が強かった彼女が作った架空のストーリーかもしれないのです。



 ぼくも荒木町を不動産物件探し、と別の時にはカメラ片手に散策など2、3回訪れたことがあります。窪地になっていて路地が狭く風情はありますが、居住地域としては適さないところだと感じました。
 隠れ家的に飲んだり食べたりするには面白そうな場所だと思いました。

細野晴臣

 はっぴいえんどの解散コンサート1973.9.21には行きませんでしたが、アルバムは「風街ろまん」「HAPPY END」「HOSONO HOUSE」「ゆでめん」と立て続けに買いました。


 下北沢の「シェルブール」の隣りのレコード屋(たぶん2階のジャズ喫茶とケーキ屋と経営は一緒)とか新宿の帝都無線とかコタニでだったと思います。


 「ホーボーズコンサート」というのがありました。はっぴいえんど解散にまつわるミュージシャンのつどいだったようです。


 74年ですから昭和49年です。細野晴臣の出演日に出かけました。池袋のシアターグリーンです。細野目当てで行ったので他の出演者は覚えていません。



 細野さんは黒ずくめでアコギ一本持って出てきました。ぼくが座っていたところからせいぜい3メートルぐらいでしょうか。いわゆる狭いライブハウスで弾き語りを聴くみたいな状況です。
 「HOSONO HOUSE」から2曲ぐらい、あとラストは「ありがとう」だったと思います。


 すごく近くて和やかなライブでしたが、聴く側も緊張するぐらいのごまかしのきかない息をのむような充実感がありました。

 ふだん静かな印象の細野さんですが、弾き語りを見て聴いてこれがプロというものだなと非常に納得しました。



 それと目黒区民会館?で行われたライブも見ました。この時は細野さんはピアノの弾き語りで「パーティー」「ろっかばいまいべいびい」とかを演奏しました。リラックス気分のライブでした。



「冬越え」(1974 hobo's concert)細野晴臣