昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

吉祥寺 アニメーション

 昭和54年か55年だったと思います。吉祥寺のアニメーションの下請けスタジオでバイトしました。4日間だけです。はじめの2日間見習いで後の2日間は本番でした。
 面接で好きなイラストというかマンガを描かされて明日から来てくださいみたいな感じでした。


 スタジオと言ってもふつうのマンションの10畳ぐらいの居間に、8~10人のアニメーターがキチキチ腰かけられるようなデスクとイスがあるだけで、そこでコツコツ描くのです。原画はどこかの原画家が描いているんでしょう。スタッフたちは分担で原画と原画の間を埋める作業、つまり動画を描いていくのです。
 ですから原画はもちろん重要な役割ですが、動画のセンスによって絵の動きの雰囲気が決定してしまう、いわばアニメの真骨頂が試されるわけです。
 アニメのタイトルは全然思い出せません。ロボット同志の空中戦でぶつかり爆発するシーンで次回へ「つづく」となったのです。確か初回のラストシーンでした。
 ロボットの絵というとぼくは8マンぐらいしか描けません。原画を真似て徐々にロボット同志が空中で接近し、ぶつかって大爆発を起こす動画を、たぶんこうなんだろうなという素人考えでつなげてみたまでです。
 ぶつかった瞬間は光の四角形みたいな印が徐々に大きくなってすぐ萎み、そこから改めて爆発の絵を大きくしていきました。よくある爆発シーンの踏襲です。光の四角形の出現~消滅を先に描くことで、秒速のダイナミズムみたいなものを表現するわけです。


 動画はチェックされてぼくより熟練のアニメーターが描き直すのかなと思っていましたが、案外すんなり通ってテレビで放映されるところも確認しました。確かに初回のラストシーンでした。ですけどタイトルは思い出せません。タイトルが判ればDVDを購入できると思い、探したこともありますが、判明しませんでした。


 4日終えた頃合いで電話で続けられないと連絡しました。動画一枚50円だからです。ですが後日手紙が来て2日分のギャラが発生したので取りに来るように、と。行ったらギャラもらえました。憶えていませんが、2000円ぐらいだったと思います。

六本木PIT-INN YMO ①

 六本木のPIT-INNでYMOの初期を見ました。

 正確には坂本龍一+イエローマジックオーケストラということらしいのですが、年月日も1978年か1979年すなわち昭和53か54年のどちらかで、はっきりとしません。


 ぼくが見た日はギタリストが高中正義でした。日程によってゲストのギタリストが違っているようなので、照合すれば何月何日とデータが出てくると思います。


 他の日は渡辺香津美だったり鮎川誠だったりしたようです。俳優の佐野(冬彦さん)もどこかの日に見に来ていたそうです。


 渡辺香津美の話によると六本木のPIT-INNの場合フュージョンバンドも出演可という雰囲気が出来上がっていたそうで、そうでなかったらYMOなど、そのころどこの馬の骨か判らないジャンルのバンドなんか出演できなかった、というのです。

 坂本龍一+ユニットという形だから出られたということでしょうか。海外ツアー前で1stアルバム発表前ですからブレイク前です。


 で、高中正義が参加した日のことを思い出すと細野さんがプンプンしていたことが強く印象に残っています。
 細野さんは高中が嫌いなんだろうなと思いました。細野さんはけっこう感情を表に出すと思います。


 はっぴいえんど再結成の85年ぐらいのステージで吉田拓郎が司会でしたが、細野さんは拓郎のほうを一瞥もしません。
 70年代にラジオではっぴいえんどのメンバー同志で喋っているときも「君の髪が~w」(実際の歌詞は僕の髪が~ですがw)と、おちょくっていました。


 拓郎はラジオで松本くんと鈴木くんとは懇意にさせてもらっているが、細野大瀧両氏とは接点がないと語っていました。

 ただ70年代はじめに拓郎がDJを務めるラジオ番組でやけにはっぴいえんどを賛美していて、バックバンドの「猫」がはっぴいえんどだったらと言葉を漏らすこともあったようです。


 そういう間接的なラブコールは送っていても、細野のほうで嫌っていたから共演話が持ち上がらなかった可能性も考えられます。レコード会社も違いますけどね。


 拓郎は70年代前半のツアーのメンバーを自分で探したのにステージで言っていますね、
 「柳田ヒロ、高中正義、小原礼、チト河内、ギンギラギンのやつばっかりw」と。

都電荒川線界隈

 昭和50年に都電荒川線界隈をカメラ持参で集中撮影しました。5、6人の単位で班を作り好きな地域を撮影に廻ります。日程もありますから、その日はたまたま荒川線界隈でした。


 都電荒川線はぼくらが子どものころ親しんだ路面電車とちがい軌道路線です。一部(飛鳥山付近)併用軌道のところもありますが、ぼくらの知っている昭和30年代の都電は路面電車で青山通りとか外堀通り、銀座通りを走っていた都電です。


 荒川線の場合線路ぎわを歩くというのはたいへん困難です。でも何かの拍子に、女の子が線路ぎわを歩いているところを写真に撮ったことがあります。自分でも記憶があいまいですが、望遠レンズ、と言ってもたかだか105か135ミリぐらいだったと思いますが、自分のネガに残っていました。望遠レンズを持参していなくても、グループだとその場でレンズの貸し借りは出来ます。


 停留所はどこか不明ですが、というのもぼくらは歩いて廻ったからですが、庚申塚か鬼子母神かその近所にお岩さんの墓の入っている寺だかがある、というので見物に行きました。四谷にあるのとはまた別のようです。全員で記念写真を撮ったら、出来上がった写真に見知らぬ影が写っていて、それはぼくのネガには無くて安心しました。


 ぼくは寺の事務所の裏庭に回って写真を撮ったりしました。広角の28ミリレンズで窓際の黒電話とか撮ったりしました。それが偶然いい出来でした。トーンがいい具合になりました。

フリー・インプロヴィゼーション 続

 ECMジャズが好きであるのと並行してフリー・インプロヴィゼーションにも目覚めた話は前もしたと思います。
 ペーター・ブレッツマン(sax:Peter Brotzmann)とハン・ベニンク(drums:Han Bennink)とフレッド・ヴァン・ホウヴ(piano:Fred Van Hove)のアルバム「Tschus」を買いました。なぜこのレコードを選んだのか判りません。ジャケットはかっこいいと思いました。現代のようにネット上で試聴することが出来ないわけですから、ジャケ買いというのは珍しいことではなかったです。


 ジャケットの裏面を見るとネガポジが写っていて、イルフォード(ilford)のモノクロフィルムを使っていることが判りました。以来イルフォードのモノクロはお気に入りです。トーンがきれいでハーフトーンの描写もいいし、グラデーションも豊かです。


 アルバム「Tschus」はフリーのバイブル的な感じで聴きました。炸裂するサックスに対して知的なピアノがマイペースで奏でられます。ドラムはドラムでサックスに合わせる感じではなく直線的でした。CD化されてないのでもう30年近く聴いていません。


 年代をさかのぼって1967年の「For Adolphe Sax」も買って聴きました。フリー・ジャズ寄りです。でもいわゆる60年代のフリージャズとは一線を画します。ベースはPeter Kowald、ドラムはSven-Ake Johanssonです。一曲だけFred Van Hoveが参加しています。このアルバムはフリーインプロヴィゼーションの初期の感覚です。


 黒人のアルバート・アイラーなども聴いていましたが、白人のフリーといえばブレッツマンなので比較しながら楽しんでいました。ブレッツマンのほうが透明性を個人的には感じました。

竹の子族と美術学校

 Mさんは絵を描いているということでした。『ゴッホの手紙』を読んで感動したそうです。絵の専門学校に通っているから一緒に来ない?と言われました。一般人でも申し込めば裸婦のクロッキーに参加できるから、と言うのです。
 目黒駅からバスで白金方面に向かいます。自然教育園あたりでバスを降りて、住宅街の中にT美術学校はありました。学校の受付で数千円を払って、スケッチブックとクロッキーの道具を買い参加しました。モデルがいきなり全裸になったので面喰らいました。
 一応ぼくも少年時代マンガ家に憧れていましたし、後年アニメーターも少しやったのでMさんよりは巧く描けました。巧いねとMさんは言いました。


 Mさんとは特に待ち合わせせずに原宿の竹の子族を見物に行きました。Mさんは竹の子族の絵を描きに、ぼくはニコマートにストロボを付けて毎週のように通いました。
 竹の子族のスターみたいのがいて山口百恵ばりのルックスの女の子をバシャバシャ撮りました。後に芸能人になった沖田浩之が所属するグループもありました。
 ロックンローラーの女子だけのグループもいて、カラーのポジ(スライド)フィルムを試し撮りする感覚で仲良くなって撮影しました。一番カワイイ子は昭和38年生まれだったのでずいぶん若く感じました。
 Mさんはカンバスに油絵具でちゃんと描いていましたが、絵はちゃんとしてなかったです。デッサンをきちんとせずマンガっぽく描いていました。何というか描かれている女の子が三頭身なのです。『ゴッホの手紙』に影響された、には遠い絵です。
 竹の子族の見物客たちが興味津々で絵を見に来ますが、何も見なかったように立ち去っていきました。


 後年、港区と品川区の不動産物件を探した際、偶然T美術学校のあった場所にたどり着きました。住所は覚えていなかったのですが、行ってみて路地の感じで気づいたのです。もう学校は無くなっていてふつうの住宅になっていました。