昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

ビートルズ

 昭和39年か40年ごろ、つまり1964年か65年ごろ、永田町のハッサンのうちにみんなで集まった時です。ハッサンはビートルズのLPレコードのアルバムを見せてくれました。LPと言っても少し小さめだったかもしれません。
 レコードは5枚以上あって、ジャケット写真のどれもビートルズの髪型がマッシュルームカットなので、何ていう不良たちだと心の中で思いました。子ども心にです。
 その時、音を聴いたかどうか忘れましたが、ハッサンはこれが今流行りなんだよ、と言ったのでレコードを掛けたかもしれません。確かに1、2年後に来日し、ヒルトンホテルに宿泊しました。外に一歩も出られず缶詰になっていたと聞いています。
 ハッサンはピアノを習っていたらしく、ぼくが遊びに行くとピアノを教えてくれました。両手の人差指だけを使って弾ける曲です。今でも覚えています。もしかしたら「猫ふんじゃった」もハッサンに教わったかもしれません。
 5年生か6年生の時のクラス会でハッサンはすでにアコーディオンをすらすら弾いていました。ぼくらは縦笛です。

瞼の母?

 父が生まれて間もないころ、祖父は家に帰らず生活費も入れませんでした。家賃が払えず、それゆえ東京のあちこちに転々と移り住んだようです。父は淀橋町大字角筈(昭和7年から淀橋區角筈)、現在の新宿駅西口の明治安田生命のあたりで生まれました。のちに牛込區余丁町、四谷區若葉町、左門町あたりも住んだようです。
 大正12年の関東大震災の時にはすでに親戚の家、群馬県の桐生ですが、写真に満1歳の父と父の従姉(2歳)が一緒に写っています。
 大正14年に祖父母は離婚しました。祖父は満州に渡ります。祖母は経済的な自立のため親戚や知人の家に父を預けました。幼少の父は川崎、大阪、愛知県などを転々としたようです。大阪から愛知に移って便所の灯りが点くので「便利やなぁ」と言ったそうです。
 祖母は再婚して浅草の駒形で炭店を営んでいましたが、二度めの結婚も失敗して、父を引き取って生活することにしました。愛知県のとある駅に始発電車で降り立ち、五条川(桜の名所)の橋を渡りました。道を訊こうと川の水を汲んでいる色白の少年に声をかけました。「誰だれの家は何処ですか?」「それならうちですよ」祖母は改めて少年の顔を見ました。
「まさかあんた、ひ〇しかい?」「そうですけど」「私は母親だよ」
 まるで、無声映画の一場面みたいです。突然のことで父は茫然としました。預けられている家に行って斯く斯く然々、家の子どもらは「本当に母親かしら」と訝しげに言いましたが、父は「特急つばめに乗れるなら、あの小母さんについていく」と答えたそうです。
 斯くして祖母と父は東京の渋谷に移り住みました。

歌舞伎座

 京橋區木挽町、現在「東銀座」駅近くの歌舞伎座は大正10年に漏電による火災で焼失しました。大正12年に再建し始めましたが、同年9月に関東大震災で中断しました。建設再開の折、二十代前半の祖父は設計で参画しました。祖父は蔵前高校の出身でひとが一週間かかる設計を一日でこなしてしまったと聞いています。
 歌舞伎座は大正13年に再建完成しました。翌14年には建立パーティーが催されました。祖父は大金を得ましたが、家庭を顧みずのちに祖母と離婚しました。祖父は大陸に渡って満鉄(南満州鉄道)に入社しました。のちに兵庫県出身のMさんと再婚しました。Mさんは祖母より一回り下の寅年でした。
 戦時中、父は召集を受ける前に写真でしか知らない祖父に会いに韓国の京城(ソウル)に渡りました。すでに祖父は満州から朝鮮半島に移転していました。Mさんと8歳しか違わない父ははにかんだそうです。Mさんは美人でした。
 祖父とMさんは父と共に日本に帰国しました。やがて終戦を迎え父は戦争から生還しました。戦後の昭和26年、それは朝鮮戦争のころで景気回復はしましたが、祖父は腎不全で亡くなりました。満50歳でした。報せを聞いて父は駆けつけ死に水をとりました。二度めの再会でした。

忠犬ハチ公~二二六事件

 祖母は昭和8年ごろ渋谷の大和田町、現在の宇田川町に住んでいました。黒板塀に見越しの松の粋な家だったそうです。場所は確かではありませんが、後年大衆食堂(店名は度忘れ)があった付近だということです。現在の「109」から道玄坂を少し上がって左の路地に入ったところのようです。
 東横デパートがちょうど開店されたころで、生きて動いていたころの忠犬ハチ公も祖母は見ています。飼い主は亡くなっていたと思いますが、そのせいかハチ公の身体は汚れていたそうです。
 与謝野晶子や女優の栗島すみ子も渋谷に住んだと聞いています。
 昭和11年2月26日は二二六事件がありました。大雪の日だったと祖母は語りました。赤坂の「幸樂」住所は麴町區永田町ですが、立てこもり事件があったと思います。
 捕まった青年将校らは代々木の練兵場、これは現在の代々木公園のあたりだと思います、そこで銃殺処刑されました。ダーン!ダーン!という銃声が聞こえたそうです。

日本橋室町→赤坂

 前に祖母は日本橋室町から戦災被害者で赤坂に引っ越してきた、みたいな書き方をしたかもしれませんが、東京大空襲ではないようです。というのも空襲はその前からあったといろいろな人から聞きます。
 祖母は日本橋に住んでいる時にすでに被災者居住権を持っていたようです。
 時代はさかのぼりますが、昭和13年に祖母は日本生命本社営業部に保険の外交として勤め始めました。日本生命は当時日本橋高島屋の中にありました。高島屋の屋上で撮った写真も残っています。担当は日本橋区域でした。住まいは渋谷の大和田(現在の宇田川町)でした。祖母の営業成績はトップでした。
 ところが、どこかのお嬢さんが来て日本橋区域の担当を取られてしまいました。そのころはどこかのお嬢さんでも保険の外交をやったそうです。祖母は赤坂区域の担当になりました。このことは戦後良い下地になりました。
 その前後に空襲の激しい時があったと思われます。渋谷の家から日本橋室町の「にんべん」の裏に移り住みました。従弟のH夫(苗字は祖母と同じ)は妹二人を連れて祖母の家に転がり込んできました。H夫は東京電燈(電力)に勤めていました。苗字が同じことを利用して祖母の家を乗っ取ろうとしました。祖母は近所のお肉屋さんに相談しました。ハンコに祖母の下の名前も入れると良いというアドバイスを受け、栃木の郷里に行って印鑑登録を変えました。
 その事実を知ってH夫はくやしかったらしく廊下の暗がりで、
「おめえもただのねずみじゃあるめえ」
と、ぼやいたそうです。祖母の葬儀の時にH夫の親戚が「世話をしてやったのだ」と言っていましたが、全く真反対の話なのです。