昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

瞼の母?

 父が生まれて間もないころ、祖父は家に帰らず生活費も入れませんでした。家賃が払えず、それゆえ東京のあちこちに転々と移り住んだようです。父は淀橋町大字角筈(昭和7年から淀橋區角筈)、現在の新宿駅西口の明治安田生命のあたりで生まれました。のちに牛込區余丁町、四谷區若葉町、左門町あたりも住んだようです。
 大正12年の関東大震災の時にはすでに親戚の家、群馬県の桐生ですが、写真に満1歳の父と父の従姉(2歳)が一緒に写っています。
 大正14年に祖父母は離婚しました。祖父は満州に渡ります。祖母は経済的な自立のため親戚や知人の家に父を預けました。幼少の父は川崎、大阪、愛知県などを転々としたようです。大阪から愛知に移って便所の灯りが点くので「便利やなぁ」と言ったそうです。
 祖母は再婚して浅草の駒形で炭店を営んでいましたが、二度めの結婚も失敗して、父を引き取って生活することにしました。愛知県のとある駅に始発電車で降り立ち、五条川(桜の名所)の橋を渡りました。道を訊こうと川の水を汲んでいる色白の少年に声をかけました。「誰だれの家は何処ですか?」「それならうちですよ」祖母は改めて少年の顔を見ました。
「まさかあんた、ひ〇しかい?」「そうですけど」「私は母親だよ」
 まるで、無声映画の一場面みたいです。突然のことで父は茫然としました。預けられている家に行って斯く斯く然々、家の子どもらは「本当に母親かしら」と訝しげに言いましたが、父は「特急つばめに乗れるなら、あの小母さんについていく」と答えたそうです。
 斯くして祖母と父は東京の渋谷に移り住みました。

×

非ログインユーザーとして返信する