昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

「夕陽は赤く」

 小学5年になってクラス替えがありました。1年から4年までクラス替えがなく担任の先生は当たり前ですが、ずっと同じ男の先生でした。5年6年は女の先生でした。


 女の先生は何となくですが、生徒に媚びている感覚がありました。何度か授業を中止にして自由時間にするのです。大半の生徒は喜んで屋上へ上ってゴム段やテニス(名称は忘れましたが、大尽から貧乏まで階級があったように記憶しています)、スカートめくりはあいさつ代わり、めいめいの遊びを楽しみます。ただ成績優秀でA中学に進んだ2人のNクンらは授業をつぶすことに不満があったようです。


 5年から転校してきたOさんは当時すでに珍しくなっていたおカッパさんの髪型で、何だかぼくはとても気になって、からかってばかりいました。廊下や階段ですれ違うたびに「こけし」とつぶやいていました。Oさんといつも一緒に行動していたSさんはOさんの用心棒的存在でした。Sさんはぼくに恐い顔をして威嚇してきます。


 ぼくは家でもOさんのことを考えるようになり、加山雄三の「夕陽は赤く」をかけて歌詞の内容に思いを重ねていました。「夕陽は赤く」は静かな曲で、ドラムはハイハットやシンバルも控えめ、スネアも叩かずリムショットでした。ハイハットの音を真似て居間にあった小さな箒(ほうき)でソファのアームのところを叩いてリズムを取りました。


夕陽は赤く-加山雄三



 ある日休み時間教室でまったりしていた時、用心棒のSさんはぼくのところに来て「あんたOさんのこと好きなんでしょ」と言いました。虚を突かれたぼくは「いいや」と曖昧に答えました。

江戸っ子のお嬢さん

 中年に差し掛かったころ、深夜の番組で昭和を懐かしむCDのCMでN小学校が映ったことがあります。古い白黒の映像の中で、鉄棒で遊んでいたのは見覚えのある女子のKさんでした。Kさんは同級でした。大人びた顔立ちでぼくより3つぐらいお姉さんのような雰囲気がありました。
 50を過ぎたころ、同窓会の貴重なビデオを借りたい旨電話をした際、鉄棒を盛んにやっていたか訊いてみました。鉄棒はよくやっていたとの返事が返ってきたので、CMに写っていたと告げました。Kさんは撮影されたことを覚えていませんでした。映像は体操着姿でしたので体育の時間だったのかもしれません。わざわざ撮影用に撮ったのならば彼女は覚えているはずです。
 ぼくがそのCMを見てすぐに判ったわけは、昔のお顔なら遠足の集合写真で見覚えがあったからです。けれども小学生時代は直接話したことはなかったです。
 Kさんは日本橋に実家がありチャキチャキの江戸っ子でした。彼女は有名音大付属中学に入り、その音大の声楽科に進んだことを電話の話で知りました。ソプラノのシュワルツコップが好きだということでしたので、ビデオを返却する時にお礼にシュワルツコップの映像を編集して同封しました。彼女はとても喜んだ様子で電話をくれました。

自作のピンボール

 K中学の1年でクラスは別ですが、円通寺坂を下りて一ツ木通りに向かう途中の路地を入ったところに住んでいたMクンと話をする機会がありました。テアトルボウリングのゲーム場にあるピンボールが面白いということになり、台町のうちに遊びに来てくれるように言いました。
 彼のうちは牛乳店でしたが、先代は一ツ木通りでかまぼこ屋を営んでいたそうです。
 Mクンを呼んで見せたかったのは自作のピンボールです。板にゴムひもを釘で留めてバウンドさせたり輪っかをつけてボールの方向を変えたりです。ボールは大きめのビー玉を使いました。
 フリッパー?も何とか似た格好のものを作り、ボールを弾きます。ちょっとしたスマートボールの様相でした。一ツ木通りにあったスマートボール屋は子どもの自分は入ったことがありません。何だろうなといつも横目で見て通り過ぎていました。
 Mクンは自作のピンボールを見て大層びっくりしたようでした。ピンボールを自分で作ろうという発想に半ば呆気に取られた風でもありました。
 中学でも3年ぐらいになると大人びた子はスマートボールの話など休み時間に喋っていました。ぼくはてっきりピンボールの話だろうと当時は勘違いしていました。

自転車通学

 K中学に通っていたころです。昭和42年以降だと思います。台町から歩いて通うのがかったるくて自転車で途中まで行きました。遅刻しそうな朝に自転車に乗ったのがきっかけです。


 途中というのは小学校からのクラスメイト、一ツ木のYクンちでした。一ツ木通りに金物店がありました。その店先に自転車を無断で置いて赤坂見附駅前の陸橋を渡って東急ホテルを横目に坂を上っていきました。


 今考えれば陸橋の麓に自転車を置けば良かったのに、その時代駅前とか路上に置くのはやはり不安だったのか、知り合いの家の前に停めて安心しきって置いていました。


 ある日学校から帰ってくると自転車がありません。店の奥のYクンの家に入っていったところ、Yクンとお母さんと妹さんがぼくの自転車を店舗と住宅のすき間に隠すところに偶然遭遇したのです。


 ぼくは自分がマナー違反なことをしてしまったんだ、と心の中でお詫びしました。
 お母さんたちもぼくの図々しさに閉口して困らせてやろうとしたのが少し度が過ぎて極まり悪そうにしていましたが、そもそもこちらがマナー違反でしたので、そのこと以来もちろん自転車を置くことはやめました。


 どうやって中学に通ったか覚えていません。放課後帰宅するコースが弁慶橋経由になっていましたので、たぶん徒歩で通ったと思います。


 現代でこそ駅前に自転車を駐輪するのはよく見かける光景ですが、当時は駅前に自転車を置く感覚はあまり無かったですし、思いつきませんでした。

料亭C

 Cという有名な料亭のお座敷を垣間見たことがあります。赤坂でも料亭を代表する存在だったと聞いています。赤坂3丁目にありました。田町通り(エスプラナード通り)からも行けましたがみすじ通りに面していました。ですが、住所的に赤坂田町なのか赤坂新町なのかよく分かりません。
 垣間見たというのはお座敷にお客として入ったのではなく、流しとして部屋の廊下に立った記憶があるからです。向島の流しのプロダクションに所属していました。派遣バンドですね。
 一流料亭といえども成金のお客もいたと思います。政治家や財界要人ばかりではなかったようです。すでに昭和50年代になっていました。芸者さんの三味線に合わせて小唄など歌う粋なお客はだいぶ減っていたと思います。だからと言ってお座敷にカラオケ機器が装備されてもいませんでした。
 そこで少人数の流しを派遣していたのだろうと思います。流しと言ってもお客が歌うのがメインのバック演奏です。向島の料亭界隈では日常茶飯事でした。ぼくも赤坂の料亭に呼ばれたのは後にも先にもその日だけでした。
 休憩時間に大女将さんのMさんにあいさつしようと思い、女中さんにM信用のIの孫だと言伝しました。大女将に会ってあいさつしましたが、畏れ多くて緊張してしまい何を喋ったか忘れてしまいました。