昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

フリー・ジャズ・オーケストラ

 昭和56年ごろだと思いますが、フリー・ジャズ・オーケストラに参加してコンサートを開きました。これも即席のバンドです。エレクトリック・ベースで参加しました。ジョーディーのフレットレスベースです。

 場所は烏山区民センター内のホールです。ミュージシャン総勢15人ぐらい参加しました。どういう曲を演奏したか思い出せません。

 曲の中間部に各楽器のソロのインプロヴィゼーションがはさまれます。
 センターはサックスのNさんとトランペットのSです。エレクトリックギターが2人、キーボードも2人、エレクトリックベースも2人、ドラムも2人でした。
 それぞれ畑違いのミュージシャンを採用し、サウンドに拡がりと奥行きを持たせました。


 聴きに来てくれたのはバイト先でデレク・ベイリーのレコードを貸してくれたMTさん、マルクス主義の団塊Mさんです。MTさんからなかなか良かった、ベースもいい音出していたと褒められました。

新宿「JAM」

 昭和57年ギタリストのHに誘われてトリオのバンドにドラムで参加しました。フリーロックというかアヴァンギャルドロックです。これはライブのための即席のバンドでした。


 ライブをやったのは新宿の「JAM」です。新宿のはずれにある花園神社の近所です。2、3年前も自転車で真ん前を通ったときに若者が行列をつくっていたので現存するライブハウスだと思います。
 数年前に藤圭子が亡くなったときも、花園神社ともう一か所は抜弁天より新宿寄りの坂を下りたところにある神社だか寺の藤圭子の歌碑をお参りしました。そのときも「JAM」の前を通りました。


 ぼくらが出演したときか定かではないですが、というのも「JAM」はいろいろなバンドで何度も出演しましたし、観にも行きました。ともかく、灰野敬二も出ていました。あの人はエレクトリックギターでしたが、急にデカいボリュームでギャーンとやるのです。突風が吹いてきたと思いました。体育座りして観てましたが、身体ごと5センチぐらい動きました。


 で、ぼくらのバンドは好評でした。ライブの後、ドラムが良かったと客が言いに来ました。ふだん話などしたことがない知り合いがわざわざ来てほめてくれたのです。
 ドラムは子どものころから好きで、グループサウンズでもドラムに注目することが多かったです。見様見真似で高校生のころ両手両足がバラバラに動かせるようになりました。
 観衆の中には後のメジャーバンドKのボーカルIもいました。

バンド ⑥ 初レコーディング

 昭和56年ごろ、初レコーディングしました。フリー・インプロヴィゼーションのバンドのメンバーでです。
 レコーディング直前にトランペットの人が参加していましたが、脱退したのです。彼は音大の学生なので譜面どおりに吹けましたが、アドリブひとつ出来ないのです。にもかかわらず他の楽器に対して偉そうに意見を言いました。
 まあアドリブが出来なくても問題はありません。フリーなインプロヴィゼーションが出来ればいいわけです。ですが、彼自身も安易にバンドというものを体験したかっただけのようでした。


 ともかくオムニバスアルバムの話が持ち込まれました。2つのバンドでA面とB面でLPを制作しようというわけです。もう1つのバンドはフリーな部分はあるものの、フュージョン寄りのサウンドでした。


 レコーディングスタジオは東京郊外のT市にありました。Hさんという人の自宅の部屋をスタジオに改装したものです。
 機材はTEACのTascamシリーズの8トラック8チャンネルのオープンリールテープレコーダーだったと思います。ミキサー機種は判りません。Hさんがミキシングオペレーターです。
 録音時、各演奏者はヘッドホン装着だったと思います。ドラムは2本か3本のマイク使用でした。エレクトリックベースはライン録りでした。
 リハーサルはあったかどうか忘れましたが、レコーディング自体は一発録りです。2曲でした。出来は不評ぎみでいつものゆったり感がないとか焦りがあるとかです。


 オムニバスアルバムで一人ひとりの費用は10万円程度でした。他にロックバンドのオムニバスにも参加しました。また別のバンドでは自分のオープンリール4トラックレコーダーを使ったり、スタジオでのラジカセ録音など用いてソノシートを自主制作したことがあります。


 当時はインディーズという言い方ではなくインデペンデント・レーベルと呼んでいました。

リバーシング・セミナー

 昭和55年ごろ、バグワン・シュリ・ラジニーシに関係するセミナーに参加しました。郊外のどこだったか詳しくは思い出せませんが、集中的に数日通った憶えがあります。
 雑誌で募集していたのかどこでそれを知ったのかもおぼろげです。


 テーマはリバーシングでした。生まれ変わるということ。
 実際には深呼吸をしていくうちに呼吸を1分間ぐらいしなくても済むようになります。唾が溜まったら自由に吐くのですが、隣りに寝そべっている女性の唾がぼくの頬っぺに落ちてきたこともあります。


 一通り終えたあと、輪になってフリートークをします。そこで今まで積もったいろいろな鬱積を発散します。トラウマを脱するというのが目的だったと思います。


 昭和53~54年ごろ普通に書店で買える本に魅かれた読者が集まったわけです。今考えると70年代からのインドブームに関連するムーブメントだったのかもしれません。


 現在どういう状況なのか全く知りませんので、ここで得た情報は鵜呑みにせず検索などしてください。当時の見解は老子に基づくTAOの思想の実践だったと思います。


 やはりぼくも当時の自己から脱却したかったのだと思います。この話はバンド仲間のHにも伝えました。

日航機墜落の日

 昭和60年の夏はつくば万博を見ました。いったん母の実家に滞在してつくば万博に出かけたと思います。でも、つくば万博のことはほとんど思い出せません。


 その日、叔母たちが居間でしゃべっていたので、ぼくは客間のアップライトピアノを弾いていました。


 当時まだ世間で知られていなかったエリック・サティのジムノペディ1番とかグノシエンヌ1番~3番です。叔母の夫(義理の叔父)は客間で寝転がって文庫本を読んでいました。

Musica relajante - Erik Satie - Gnossienne No. 5



 1時間ばかり弾いて、お茶でも飲もうと居間に行くと叔母のE子が、



 「たいへんだよ、飛行機が墜落して、坂本九が乗っていたんだって」「エエーッ!?」
 坂本九と叔母E子は同じ歳です。


 叔母2人に叔父の嫁2人と母がいて、一人席を外すとその人の話題。また別の人が席を外すとその人の話題。順番に移っていきます。


 女性は悪気はないにしても、いない人の話を抵抗なくできるんだなと、そのとき痛感しました。