昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

薬研坂のパン屋、駄菓子屋

 表町のころ薬研坂のふもとにあったパン屋さんでクリームパンとかチョココロネを買った話は前もしましたが、母から甘食を買ってくるように言われた時もあります。
 甘食は平べったい円錐の形をしています。わかりやすく言えばおっぱいの形ですね。値段はクリームパンやチョココロネの半値です。なので1個10円ということですか。ずいぶん安かったですね。お駄賃は無しです。クリームパンとチョココロネも一緒に買うのが最高のお駄賃だったのか、記憶があいまいですが、一度だけ、甘食2個という厳しい財政の時もありました。
 薄い紙袋に包んでもらい子ども心に少々恥ずかしい気分だったと思います。20円で2個買えるわけですから、今日のところはしょうがないと自分に言い聞かせます。
 僕らの子ども時代は甘いものに飢えていたと思います。ただ虫歯になるから、とか合成の甘味料だかに神経質になってはいたと思います。あと夜店なんかで売っていた食べ物の着色料です。食紅でも害のありそうなものもあったようです。


 薬研坂のパン屋のとなりが八百屋さんでその並びの角にタバコ屋さんがありました。そのタバコ屋さんの経営する駄菓子屋さんが店舗内にありました。そこでメンコとか買っていました。
 駄菓子屋さんで気になるのは東鳩のスティックパンです。正式な商品名ではないかもしれませんが、何の飾り気もないスティック状のパンがビニール袋に4本入って60円ぐらいです(もしかしたら8本だったかもしれません。値段も確かではありません)。パン屋で見かけたことは無かったものです。
 子どもにとって60円の品物を買うために親からお金をもらうのはけっこう気を使います。信じられないかもしれませんが、ぼくは金銭面ではけっこう親に気を使いました。4本も入って60円だから安いよ、とか栄養があるよとか親を説得します。その熱意にほだされて母も60円ぼくの手に握らせるのです。
 念願かなって食べた東鳩スティックパンはほんのり甘い味といい香りでした。甘食の甘さより深みのある、たぶんバターの風味が加わっていたように思います。


 台町に引っ越してからも角の駄菓子屋さんは通って何度かスティックパンを買いました。小学校に上がったころは、アメリカの思惑どおり給食の食パンとマーガリンと脱脂粉乳で育てられましたからパンは好きでした。

父から聞いた都市伝説

 父から聞いた、今でいう都市伝説があります。戦前か戦後かはっきりとはわかりませんが、帝国大学の入学試験の問題が変わっていたというのです。


 東西南北の方向に「東」「西」「南」「北」の漢字が書いてあって、中央に「君」と書いてありました。
 これより問題文は「君は東(あずま)に南西(何し)に北(来た)?」とありました。東(あずま)とは東京のことです。(これは問題そのものなのか、学生が提示したのかもはっきり判りません)


 ある学生は東西南北に「東」「西」「南」「北」と配し、中央に「僕」と書いて、
 「僕は東(あずま)に北(来た)が西南(災難)」と答えたそうです。
 この学生は見事大学に合格しましたが、20代前半で亡くなったというのです。つまり回答と同じ運命をたどったということになります。


 問題文は君を中心に東から時計回りにいきますが、回答文は僕を中心に東から時計回りと反対に回ります。
 この話は祖母も知っていました。なので一定の時期世間で知られた噂話だったのでしょう。

中島みゆき

 最近ネット上で中島みゆきの「彼女の生き方」を聴きました。何十年も忘れていた曲です。


 80年代に下北沢のレンタルレコード屋さんで中島みゆきのアルバムを借りて「わかれうた」とか「ホームにて」とか「アザミ嬢のララバイ」とか聴いた覚えはあります。「彼女の生き方」は記憶の底に眠っていました。こんなにいい歌を忘れていたなんてホントにびっくりです。


 「わかれうた」とか「アザミ嬢のララバイ」は西田佐知子のコブシのひねり方を想起させます。「くれないホテル」を中島みゆきが歌ったらどうなるだろうとか思ったりします。

西田佐知子 くれないホテル



 逆に西田佐知子が中島みゆきのナンバーを歌ったらどうなるでしょう。


 あと西田佐知子には浅川マキの「かもめ」とかのナンバーをカバーしたら相当面白いだろうなと思います。


 あくまで妄想ですので、お許しをw

奇人変人コーナー

 昭和50年ごろです。日本テレビのワイドショーで奇人変人コーナーがありました。土居まさるが司会で相本久美子がアシスタントの番組でした。
 その中に一般公募で奇人変人コーナーがありました。出場するだけで確か白いギターがもらえたと思います。


(以下グロ注意)
 ぼくより1歳上の男が出てきてネズミを生きたまま口の中に放り込んで食べて飲みこんでしまいました。場内は騒然。お茶の間のぼくたちも信じられない光景を見て仰天しました。


 次の日友だち同士で話題になりました。そして数日後あの男は死んでしまった、と聞きました。


 これは又聞きですから確かめようにも出来ません。現代だったらネットで大騒ぎの種だと思います。周りの人に聞いてもあまり知らないという人が多く。もちろんデマの可能性もあります。


 いずれにしても奇人変人コーナーで光景を見たことは確かですが、その後の消息については不確かです。ただ1歳上だったのはよく覚えています。

母にぶたれたこと

 曽祖父、父方の祖父の父は明治十年代の生まれです。祖父は明治34年ごろ生まれたそうですから20歳ぐらいしか離れてないようです。
 その曽祖父はポマードの代わりにバターを髪につけていたそうです(笑)。
 それで日曜日というと機嫌が悪かったそうで、なぜかというと家計が厳しかったので行楽に行けないからだそうで、暗黙のプレッシャーを感じていたのかもしれません。


 曽祖父の娘さん夫婦のうちに初めて遊びに行った時、ぼくは曽祖父のことをZ爺さんと言ってしまいました。うちでいつもZ爺さんと呼んでいたのでつい口に出してしまったのです。
 Z爺さんはとっくに亡くなっていましたが、娘さんは存命していたので呆れられたかもしれません。娘さんは大正生まれです。その方は祖父の妹です。祖母の義妹ということになります。


 そのご夫婦が昭和32年ごろ赤坂表町のうちに遊びにきた時、母が手作り料理を銀紙に包んで出しました。赤坂「からす亭」の店屋物の真似をして出したのです。
 予てより「からす亭」の銀紙に憧れていたぼくは「こんなの初めて」と言って嬉しさを表現しました。ご夫婦が帰った後、母にしこたま尻をぶたれました。母の見栄張りをバラしてしまったからです。