昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

大人の男

 昭和39年、箱根に林間学校に行きました。瞬間の光景として憶えているのは担任のF先生のシンボルです。男風呂にクラスの男子生徒みんなとF先生はいっしょに入りました。
 大人のシンボルを目の当りにしたのはほとんど初めてで、軽いショックを受けました。ふだん教室で授業をしているF先生は先生としか見ていません。それが林間学校の大浴場では大人の男だったのです。大浴場は外から陽光が入ってきて妙に明るかったのです。
 広い湯船でみんな湯に浸かってくつろいでいる中、TクンとFクンはお湯を掛けあって大変なはしゃぎようです。4年生のポークビッツ同士です。それを微笑ましく見つめるF先生は無防備で湯船のへりに腰かけていました。


 父とうち風呂に入ったことはもちろんあります。昭和の木造の家の風呂はそれほど明るくなく、父親のシンボルは捉えようがなく肉団子のようだと思ったのです。子どもの自分はポークビッツです。


 父は幼少のころから親戚などの家に預けられていました。祖母の姉夫婦のところに厄介になっている時代、いとこのIさんと風呂に入ったところ、「H(父)さんに毛が生えた!!」と騒いだそうです。
 Iさんは大正15年から昭和元年に変わる12月に生まれました。父より4歳下ですが、子どものころの4歳差は大きいのかもしれないですね。成績のよかった父はIさんに勉強を教えていたそうです。


 Iさんは戦争には行っていません。同じ大正15年でも12月25日以前に生まれた浅草の小父さんは特攻隊に所属していたのですから、ほんの数日違いで運命が変わってしまったんですね。(もっとも浅草の小父さんは旧制中学も早々に志願したそうです。)昭和元年は12月26日から31日までですからもしかしたらそのあたりが境界線かもしれません。
 昭和3年生まれでも志願すれば少年兵にはなれたようなので、昭和元年生まれだとすれば志願しなければ徴兵は無かったのかもしれません。

祖母の好きなもの

 祖母は二十歳のころ『源氏物語』を読んだと言っていました。与謝野晶子訳だと大正3年と大正12年と昭和13年とありますが、大正3年のダイジェスト版を大正11年ごろに読んだと思います。


 与謝野晶子版の大正12年の草稿は大震災で焼けたのです。昭和13年は祖母はすでに三十代半ばです。谷崎潤一郎訳には間に合わなかったと思います。ですが、そもそも男女のことばかりで「源氏」はあまり好きでないとも言っていました。


 むしろ『平家物語』のほうが好きだったようです。孫のぼくによく語ってくれました。建礼門院の話、安徳天皇入水の場面、平敦盛と熊谷直実の場面、白拍子祇王と仏御前の話など滔々と語ってくれました。おそらく明治、大正のころに『平家物語』読本がかなり普及していたんだと思います。


 幕末を題材にした小説とか司馬遼太郎を中心に好んで読んでいました。男勝りだったのでチャンバラ劇や時代劇をよく見ていました。

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲

 昭和の終わりごろでしょうか、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のレコードを図書館で借りました。
 いろいろな四重奏団で聴きましたが、気に入ったのはハンガリア四重奏団(ステレオ:1966年録音)でした。


 印象としては線が細く消え入りそうな演奏ですが、それが良かったです。


 下地にテレビ版の「月光仮面・サタンの爪」(尊き犠牲者の回)で見られるマキ(深川きよ美)とハンチングの由(宮田洋容)とレンジーノ(オレンジ河野)が有楽町の路地を歩いてくる場面で、弦楽四重奏にフルアコギターがBGMを演奏しています。


 ハンガリア四重奏団は物寂しい白黒の映像を思わせる演奏が好きになったのです。後年廉価盤CDボックスを買いました。



 ブダペスト四重奏団(ステレオ)は骨太な渋みがあります。第一ヴァイオリンのピッチがたまに悪いときがありますが、総じてダイナミックでいい演奏です。後年CDのボックスを買いました。


 品川に住んだ際、区の職員が二人で資産実態か何かの調査に自宅訪問がありました。 
 CD棚にブダペスト四重奏団のボックスを見つけた職員はにんまりしました。このとき職員は本当に区からやってきたと思いました。


 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲でアルバン・ベルク四重奏団とブダペスト四重奏団が二大有名楽団だと思います。アルバン・ベルク四重奏団は図書館で借りたり、渋谷の「ライオン」で試聴したりしましたが、あまりピンと来ませんでした。



 後年CDが普及してからVegh四重奏団を一枚だけ買いました。Sandor Vegh率いる楽団です。70年代の録音でした。全体の雰囲気は良かったのですが、肝心のSandor Veghのピッチがあまり良くないため全集を揃える気にはなりませんでした。

東京タワーのトンコ

 昭和30年代後半から40年ごろ、東京タワーのふもとに「とん子」という店があったらしいです。あったらしいというのは変ですが、父が通っていた飲み屋さんです。晩ご飯の後、父の帰りが遅いと母がそわそわしながら、
「とん子だね、きっと。ちょっと行ってくる」
と言って出かけます。母はバスで「赤坂支所前」から「溜池」「六本木」と乗り継いで行き「飯倉」で降りました。

 見上げれば東京タワーです。「とん子」は女主人が営む小さな飲み屋でした。父はどうやらママさん目当てで飲みに行ってたようです。ついつい長居になることもしばしばでした。


 母は父の首根っこを掴む感じで連れて帰ってきました。
「やっぱりとん子にいたよ。トンコトンコ♪」
と母は勝ち誇ったように言いました。


 「トンコ節」は昭和26年発表のお座敷歌です。作詞は西条八十です。歌詞の結びに「トンコトンコ♪」という独特のフレーズが印象に残ります。

久保幸江 トンコ節 (高音質ステレオ)


 そこから採って店名にしたとすればママさんも元素人じゃないかもしれません。


 ちなみに五月みどりの「一週間に十日来い」(お座敷演歌:昭和37年)の歌詞には「とことんとことん♪」というフレーズがありましたね。

70年代ジャズ・コンサート(音源あり)

 昭和53(1978)年にキース・ジャレットのコンサートに出かけました。日本武道館だったと思います。音が遠くて全然わかりませんでした。キース自身も豆粒みたいにしか見えませんでした。


 たぶんこの一連のコンサートは後の「サンベアコンサート」になったと思うのですが、間違っていたらゴメンなさい。(付記:検索しましたら「サンベア」は1976年でした。失礼しました。おそらく「サンベア」を聴いた上でコンサートに出かけたと思われます。)

Keith Jarrett - Tokyo Encore (Sun Bear Concerts)
 会社の先輩も興味を持っていたらしく少し話しました。
「どうだった?」
「音が悪かったです。武道館は音が悪いですよね」
「でもマイクはピアノに近づけて拾っているわけだろ?」
「・・・・」


 確かにマイクは近づけていたのかもしれないですが、録音のためだと思うのです。PAで会場に流していたわけではないと思うのですが、どうでしょう?


 アルバム「サンベアコンサート」は図書館で借りて聴きましたがピンときませんでした。録音のことは判りませんが、ピアノに近いマイクもあればちょっと離れたマイクもあると思います。
 その影響もあるんじゃないでしょうか。(付記:ここに書いた後改めてアルバムの断片を聴きました。当時より心地よかったです。これも訂正します。)


 同じころ、ラリー・コリエルとスティーヴ・カーンのギターデュオのコンサートも見ました。そのことを先輩に言うと、
「スティーヴ・カーンじゃなくてスティーヴ・キューンだろ」
「スティーヴ・カーンです、ギタリスト。スティーヴ・キューンはピアニストですよね」
「うむ」
 そんな雑談を交わしたのを覚えています。

My Serenade - Larry Coryell Philip Catherine
 これはスティーヴ・カーンとのデュオではありませんが、フィリップ・カテリーンとの数ある共演盤の一つです。ピッキングの正確さはカテリーンのほうが上でしょう。