昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

意外とはっぴいえんど(ティンパン)っぽい曲もあり 大瀧詠一


けいおん!×大瀧詠一「あつさのせい」




福生ストラット(パートⅡ)www


 はっぴいえんど時代プレスリー張りのボーカルを聞かせていた大瀧だがソロになってもバンドのメンツは多くはなっているものの、いわゆるティンパンアレーサウンドになっているものも多い。これらは下北ロフトでよくかかっていたので想い出深い。


 りんごはなるべく大きなものを齧りたい気持ちは自分も嚥下障害になって大いにわかる。大瀧もリンゴをガブっといったにちがいない。窒息してしまい残念なことになった。

70年代の混沌 細野晴臣


Haruomi Hosono - Hong Kong Blues (1976)





Haruomi Hosono - Sayonara (The Japanese Farewell Song) (1976)


ソロアルバム1st「細野ハウス」からいきなり「トロピカルダンディ」の時点でファンは戸惑ったにちがいない。「泰安洋行」においては細野から離れて行ったファンも多かったはず。細野のファンなのか細野のサウンドファンなのかはっきり判明する分水嶺だったにちがいない。
 その後の流れを見てもイエローマジック何ちゃらとかエキゾチックなアルバムが続く。


 そしていきなりYMOの発生も驚嘆に値する。

Marcin Wasilewski Trio


Marcin Wasilewski Trio - night train to you





Simple Acoustic Trio "Sleep Safe and Warm"


うちカフェってどういうのか知りませんが、確かにカフェに行けば冷房は効いてるし好みのドリンクが飲める。だけどそのカフェまで行くのが暑くて億劫という人は、


 部屋でカフェの雰囲気を楽しみましょう。上記のジャズはジャズというほど邪魔にならないし、BGMというほど古臭くない。上記はポーランド出身のピアニストMarcin Wasilewskiのトリオだ。アルバム「Trio」は一番無難に聴き流せる。


 コーヒーはあっさり目ならキーコーヒー、ブラックで飲める。こってり派には丸福珈琲とか守山珈琲が個人的な好み。

細野晴臣の風景

 細野晴臣は白金の出身である。ふた昔ぐらい前、テレホンショッキングで山本コータローが細野さんああ見えて麻布の出身なんですよ、と言って場内を沸かせた。


 次のゲストは細野自身でタモリに細野さんご出身は?と問われ、芝と答えた。地方出身者は芝、芝?芝ってどこだ?となる。


 芝は芝區のことである。港区の南側に位置する地域は細野晴臣が生まれるころまではれっきとした芝區だったのである。つまり山本の誤解に基づく発言だったのである。
 20年ぐらい前に散歩したときには街の住居表示の瀬戸物でできたような青い板には芝白金と書いてあった。


 細野の実家は白金三光町のおそらく高台、閑静な住宅街にあったと思われる。坂の下は三光町の下町風商店街がある。シブがき隊のヤックンは幼少期この近所に住んでいて精肉店でコロッケを買っていたという。


 細野は白金小学校に通っていたというのだから目黒通りを横断して八芳園の坂を行ったにちがいない。目黒駅から出ているバスの停留所には白金小学校前とあるからバスは八芳園の坂を下って明治学院のほうに抜けるはずだ。
 細野の実家は白金三光町だと思うが、目黒通りを境に白金今里町だ。つまり白金小学校は今里町にあった。
 ちなみに小学校のはす向かいの路地を行くと宗教法人がある。このあたりに昭和30年代は専弘社々長宅があった。専弘社というのはドラマ版「月光仮面」を制作した広告代理店だ。予算の制限下、社長宅を月光仮面の別の顔祝十郎探偵事務所として撮影に使っていた。当時夜遅くまで撮影していたのでご近所さんから苦情が来たという。


 中学は慶応を受けたという。受からなかったので青山南町の青南中学に通う。高校も慶應を受けた、また落ちた。ここでつくづく自分は頭が悪いんだなと思ったと細野自身の回想がある。
 立教高校に通う。もちろん立教で充分なわけだが、親や親戚と比較して自身でそう思ったにちがいない。


 ちなみにマスコミなどでシロカネシロカネと唱えているのは現在の白金台を指す。現在の白金と称するところは半工業地帯商業地域でオシャレなイメージではない。


 最初のうちはフォーク志向だったかもしれない。ベースで活動する時期は詳しくは分からないが新宿あたりにあったディスコやジャズ喫茶に生演奏を派遣されて出かけていったのかもしれない。


 そのあとのことは皆が知るエイプリル・フールやはっぴいえんど(結成当時の名はバレンタイン・ブルー)だった。バンド移動中に新しいバンド名をメモっていたというから松本も不安に思ったらしい。

松本隆論

 作詞家の松本隆は元はっぴいえんどのドラマーだ。細野晴臣が君は本をいっぱい読んでいるから作詞を頼むと言ったのがきっかけで作詞を試みた。
 はっぴいえんどのアルバム自体の売り上げは大したものではなかったが日本語ロックとして伝説に残った。


 松本が当初こんな日本を代表する作詞家になるなんて誰が予想しただろうか。
 親は官僚、青山生まれの西麻布育ち慶応中等部から内部進学と聞いて誰もがお坊ちゃんを想像するだろう。何で海のものとも山のものとも分からないバンド活動なんてやるなんてこのドラ息子(一応ドラムと掛けてみました)と思ったにちがいない。
 幼い妹を失くした暗さはあるものの何も今でいえばインディーズのような会社からレコードを出すなんて何が悲しくてやるんだろうと思う。


 細野晴臣もけっこうお坊ちゃん育ちだが、松本はちょっと違う。情があるのだ。細野が毛嫌いするたくろうと仲良しで仕事も一緒にやった。鈴木茂が大麻で捕まったときも身元引受人になったのは松本である。
 細野の松本と初対面のときの印象はキザな自信家風でバンドをやらないかと持ち掛けられたという。慶應のパーティーにも細野を誘ってバンド活動をした。だからか当時のロック雑誌には細野の出身大学も慶応と記述されたぐらいである。


 だが、エイプリルフールのキーボード奏者柳田ヒロによるとはっぴいえんど結成時、細野はドラムは林立夫と想定していたらしい。もしドラムが林だったらああいう詞は生まれなかっただろうし、伝説のバンドにならなかっただろう。ここは細野の計算ちがいと言うべきか。
 やはりバンドというのは自分らのやりたいことをやると売れない。誰かにせがまれてイヤイヤやって売れる場合が往々にしてある。


 そこまではさすがの細野も読めなかったというべきか。


 通称「ゆでめん」の1stアルバムの録音にはスタッフの一人に早川義夫もいてあまりの下手さに呆れてスタジオを飛び出した、と聞くが録音のせいもあるかもしれない。楽器のせいか。確かにバンドとしてのサウンドはあるが、録音の悪さは否めない。


 鈴木茂は松本のドラムを高く評価している。松本さんのキック(バスドラのこと)が強いから・・・。元々鈴木は林立夫や小原礼とバンドをやっていたのだからその辺りは細野と若干見解が異なるわけだ。


 鈴木茂の歌の中には細野と大瀧の不仲を憂う詞も含まれている。


 そういうことから気にくわない人と仕事をやると意外な成果が、それも人生を左右するような偶然も含まれているのだ、と思う。