母親がいらいらしていたのとちょうど妹が腹にいた時期と重なる。ぼくと妹の間に二度中絶していた。
昭和30年代中絶は流行していた。青山のN産科は超一流女優Yがよく中絶に来たという。
5歳の誕生日ごろか、一人で寝るようにしつけられた。その数年前草月から大金を受け取ったうちは増築して部屋をひとつ増やした。そこに両親は寝て、ぼくはそれまでどおり広めの部屋で一人で寝ることになった。
母親は計算上半年後に妹を身ごもったことになる。ある夜、おとうちゃんといっしょの部屋にぼくが寝ることになる。夜中おとうちゃんが起き出したので何かと思ったが、
「部屋を出てはいけないよ」
と言うので布団の中でおとなしくしていた。
妹が産まれたのだ。
ぼくは6歳まで一人っ子だった。両親のことをおとうちゃん、おかあちゃんと呼んでいた。妹が生まれたのは昭和35年である。世間的に流行っていたパパ、ママという呼び方に変わったのだ。
ぼくも妹も自宅出産である。近所に家政婦会々長のTさんが住んでいて、名うての助産婦だったせいもある。ここの娘さんは宝塚女優になった。
ぼくが赤ん坊のころは母親のお乳が出たが妹のころは授乳ミルクと半々だったかもしれない。それと離乳食がそろそろ出回っていたらしく妹に離乳食を試すが身体に合わなかったらしく吐いてしまっていたのを覚えている。
ぼくは脳梗塞で倒れる前80キロあった。身体が重くて電車に乗っても空いている席ばかり気になっていた。電車はそれじゃなくても嫌いになっていた。みんなケータイかスマホを見ている。それがすごくいらいらする。だからたいがい自転車に乗っていた。
ハイデガーの『存在と時間』には哲学書としては意外にも気遣いのことが出てくる。世界内存在である人間は気遣いが重要だというのだ。