昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

不動産会社の営業マン

 大手不動産会社にはグーチョキパーの原理があると思います。大手業者をM、S、Tに分けるとすると、MよりSのほうが押しが強いです。同じ物件を扱う場合Sのほうが強いです。ところがSが着手した物件でもTが出てくると、Sは引き下がりTがさらっていくことがあります。TとMだとMのほうが気が利いていてMで契約してしまったこともあります。


 個々で言うとMは紳士的で慇懃な反面、裏はやはり不動産屋です。もっともMと看板に掲げていても独立自営だったり何かでチェーン店ではないこともあります。

 Sでちょっと問題のある物件を押し付けられたり、物件が気に入らずに他社の物件を決めたら抗議の電話がかかってきたことがあります。総じて強引な印象があります。

 Tは丁寧すぎることはないしゴリ押しもなく、ひょうひょうとした印象がありますが、いざという時は意外に腕を見せてくれて、高めに売ってくれたりします。


 ある渋谷区の物件売り出し期間中に、ぼくは家の階段を踏み外し腰を痛めてしまいました。その当日も内見のお客がありました。担当の営業マンTくん(会社もT)に事情を伝え、お客さんには失礼ながらソファに腰かけたままあいさつしました。そのお客さんが帰った後、Tくんはタクシーを拾ってきてくれて玉川通りの整形外科病院まで付き添いで連れていってくれました。


 レントゲン検査で幸い腰に異常はなかったので渋谷駅まで戻り、Tくんを見送ってそのまま自宅にタクシーで帰りました。

 腰を痛めた当日は腰掛けてジーパンを履いたままの応対でした。そのせいか決まらなかったので、次の内見客の時からなんとなくスラックスを履いて応対しました。


 結局、渋谷の物件は有名業者Cで売買契約が成立しました。


 後日、Tくんに約束した通り上野の裏路地にあるとんかつの名店で3000円ぐらいのとんかつをおごりました。衣の色が黄色に近いうすいきつね色です。肉がやわらかく薄紅色していました。あともう一回やはり上野の和食の名店でご馳走しました。どちらも彼の運転で社用の車でです。

 階段で踏み外したのはぼくのプライベートなことでしたが、T社の彼は親切な対応をしてくれました。


 そのことは直接関係ないと思いますが品川区の物件の売りの時はT社で決まりました。

ミュージシャン表記

 70年代の音楽雑誌にはミュージシャンの表記がいろいろありました。


 デヴィッド・ボウイは雑誌に紹介された当初デヴィッド・バウイと表記されました。


 ジョン・マクラフリンも最初マクローリンとかマクラグリンと記されて雑誌によってまちまちでした。そのうちマクラフリンに定着しました。

John McLaughlin & The 4th Dimension FULL CONCERT 2012 - Live at 33. Leverkusener Jazztage


 ジャコ・パストリアスは最初パストリアスでしたが、途中ちょっとの期間パストリウスになったことがあります。いつの間にかパストリアスに戻りました。細野晴臣などはジャコ・パトリウスと呼んでいました。これは肉声で聞きましたから確かです。70年代パトリース・ラッシェンという女流キーボード奏者がいたのでごっちゃになったのかもしれません。
 ドラマーのアルフォンス・ムザーンはムーゾンと表記されることもありました。


 ジェフ・ベックと共演したヤン・ハマーが流行り始めたころ、ラジオ番組のゲストに日本のロックミュージシャンが出演した時などはヤン・ハンマー投げと言ってはしゃいでいました。

Jeff Beck - Blue Wind


 ECMジャズでお馴染みの、ギタリストでありピアニストでもあるジスモンティは70年代はギスモンティの表記でした。


 苗字にMcが付くのはだれだれの息子という意味だと知ったのは2000年代になってからです。マッカートニーとかもそうです。マッカーシー、マクラフリン、マクドナルド、マッキンレーなどなど。


 70年代、FMラジオで「アスペクトインジャズ」とか「アスペクトインクロスオーバー」のDJをやっていた音楽評論家の油井正一は独特のアクセントで人名を呼んでいました。ジョン・コルトレーンをジョンで一旦止めてコルトレーンの「コ」にアクセントを持ってきます。普通はジョン・コルトレーンと平坦に言いますが、彼は違っていました。アル・ディメオラも我々はアルファロメオと同じ言い方をしますが、油井さんは違っていました。アルで一旦止めます。「あるジオラマ」みたいな呼び方です。ラジオを聴きながら、おっ!と思ったものです。

シルヴィー・バルタン

 シルヴィー・バルタンに関しては特異な印象と思い出があります。ちゃんと聴くようになったのは平成の初めですが、新宿西口に中古レコード屋がありました。そこでシングル盤を買って以来ハマりました。


 新宿西口のションベン横丁の向かいにドラッグストアとか喫茶店とか並んでいます。ガードの向かい側に立つともう見えていたと思います。「西口トルコ」の黄色い四角いネオンが。交差点の横断歩道もしくはもう少し先の陸橋を渡ると西口トルコのエリアになります。
 その路地の脇に中古レコード屋があっていかにもやさぐれた雰囲気の地帯でした。しかも中古屋に入ろうとすると路地の奥の椅子に腰かけたオジサンが目に入ります。オジサンの手前に細い通路があって、それはストリップ劇場の入口でした。西口トルコに行くにはオジサンのところを右に折れるのです。もっともその中古レコード屋に行くころはトルコではなくソープランドという呼び名になっていました。
 路地にはエロ本屋とか輸入レコードのディスクロード、後年はえとせとら(レア物中古レコード店)ができました。


 表通りのほうの中古レコード屋は店舗自体も古く店内は独特の饐えた匂いがありました。LPの棚が周りを囲んでシングル盤は中央にありました。一通りパタパタ見てシングル盤をパタパタやっていたらシルヴィー・バルタンの「悲しみの兵士」が目に留まりました。バルタンの清楚で悲しげな顔のジャケットに魅了されてしまいました。曲も記憶の片隅にあったかもしれません。400円ぐらいだったので試しに買いました。それからハマってLPを15枚以上買いました。


 「想い出のマリッツア」はすごく熱中してギターでコピーしました。カポタストを着けると簡単なコードフォームです。あと好きな曲は「恋のとりこ」「微笑みのバラード」「悲しみの兵士」「愛の小舟」です。


 
 微笑みのバラード

Sylvie Vartan Ballade pour un sourire



 時代はCDになりつつあり、渋谷のロフトの1階にHMVがフロアを借りていたか定かではないですが、(その後向かいにHMVのビルは建ちましたが現在はアパレル関係になっています)そこでバルタンの輸入CD-BOXを買いました。


 ハマってるころは来日コンサートも東京の他横浜や大宮まで足を運びました。フランス語を2年独習してバルタンにファンレターを書いてコンサートの後、日本人マネージャーに渡しました。フランス語の勉強は新宿の喫茶マイアミ(地下)でやりました。


 後年急激に冷めてレコードを全部えとせとらに売ってしまいました。CDも大半売ってしまいました。2000年代に再燃してまたCDを探したり、紙ジャケ仕様のCDも買いました。DVD(ブート含む)も6本ぐらい持っています。
 そんなわけで、シルヴィー・バルタンというと新宿西口のうらぶれた饐えたにおいの路地や中古屋を思い出すのです。

イカす バンド天国

 平成になってすぐ「平成名物 イカす バンド天国」という番組が人気になりました。通称イカ天ですが、イカ天キングになって5週勝ち抜きでグランドイカ天キングになり、プロになったバンドも多いです。


 ざっと思い出すまま挙げてみますと、ジッタリンジン、たま、マルコシアスバンプ、ビギンなど。プロかどうかはわかりませんが、カリフォルニアの青いバカとか大島渚というバンドもあってどちらかに漫画家(名前忘れました)が参加していました。


 司会は三宅裕司と最初は女子アナの福島弓子だったと思います。のちのイチローの奥さんですね。お姉さんも某局の女子アナでした。その後相原勇に入れ替わりました。


 たまのボーカル、ギターの人とドラムの山下画伯スタイルの人はたまを結成する前に他のバンドに参加していました。キーボードに女性ミュージシャンがいてその人は二人組のユニットやソロ活動もしていました。アコーディオンの弾き語りもしました。ユニットシングルも出していました。この女性はまた他のバンドのベーシストと結婚したようです。
 たまの二人や女性が参加していたバンドのライブは観に行ったことがあります。ライブの打ち上げ飲み会もついていきました。このバンドは「移動式女子高生」というシングルを出していたと思います。



Marchosias Vamp / バラが好き (GRE '89)


 マルコシアスバンプのベーシスト、佐藤研二はガキデカのようなヴィジュアル(コスプレ)だったと思います。ベースはずば抜けて巧かったと思います。手袋をして弾いていましたが、ベースラインがカッコよかったです。ギブソンのSGベースだったような記憶があり、フリーのアンディ・フレーザーと同じです。

バブルのあとさき

 先日のバブル期の記述は事業用でした。少し補足しますと、居住用は23区内に引っ越し可でしたが、事業用に関しては23区内は不可でした。限定された地域のみ買い替え可能の対象でした。

 札幌とか博多は当時想定外でしたが、実際のところ武蔵野市、三鷹市、町田市、多摩市、国立市、国分寺市、府中市、調布市、神奈川県横浜市緑区、青葉区、川崎市麻生区など限定されていました。それであちこちの物件を探すことになりました。

 たまプラーザとか鷺沼、宮崎台、溝ノ口など田園都市線沿線だとか相模大野、町田、柿生、新百合ヶ丘など小田急線沿線、聖蹟桜が丘、分倍河原など京王線沿線を見て歩きました。

 武蔵野市、三鷹市はたぶん方位かなんかの関係で想定外だったと思います。


 居住は世田谷区内に決まって、思い出すのは昭和62年か63年ごろ、桜上水駅で特急通過待ちしている時でしょうか、弁当箱のような本体からトランシーバーみたいなものを取り出して「ああ、そっちは3億で決まったから・・そうそう」とか喋り出す30代半ばぐらいの男がいました。車内は座っている乗客が誰も喋らずシーンと静まり返っていました。まだラッシュ前の時間だったので、その男の話し声だけが車内に響き渡っていました。

 ケータイが普及する前ですから乗客たちは固まっていました。男はぼくのはす向かいに座っていました。ぼくは所在なげに夕陽をながめるふりをしました。他人事なのに非常に恥ずかしかったです。


 バブルのころ、六本木でタクシーを拾うに拾えなかったとか、万札を持ってヒラヒラさせて停める方法があったとよく聞きます。チケット使い放題とか。

 あと言葉遣いも、語尾上げや「~じゃないですかー」「なんだろ、・・」とか会話に織り込む言い回しが普及しました。ぼくの感覚では村上里佳子(RIKACO)が言い出して流布した印象があります。バブル世代の人は言い回しに上のような特徴があると思います。本人しか知らない事実を「私って〇〇じゃないですかー」とか話し出されたら、戸惑います。


 でもふつうに団塊のおっさんが語尾上げでしゃべっていると、バブルの名残りか子どもの影響か交友関係に若い人がいるんだなあと思ったりします。

 語尾上げはすでに70年代にありました。小金井市のA君が言い始めたと思っています。ぼくらの世代で言い始めた感が強いのは「意外と」です。大正生まれの父が不思議に思っていたようです。