昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

笹本恒子 「おしゃれ」と「素敵」の違い

 笹本恒子は大正3年生まれで今年102歳です。女性報道写真家第一号です。


 この方の本を書店で立ち読みした時にハッとしたのは「おしゃれ」は褒め言葉とは限らないということ。おしゃれは服装を褒めているのでむしろ茶化しているとも取れる。ホントにいいと思ったら「素敵」が出てくるはずだ、というのです。なるほどと思いました。


 この方もデザイナーの経験がありますから「おしゃれ」を茶化す意味で使ってはいないでしょうが、含まれるニュアンスにそういうことがあるんだと頭の隅に置いておく、ということだと思います。
 昨今「おしゃれ」という言葉が乱発されていて、若干違和感を覚えていたのも納得がいきました。
 
 笹本恒子写真集『昭和・あの時・あの人』は持っています。初めて持ったカメラはライカだそうです。昭和15年のことで日中戦争たけなわのころです。


 それまでは画家を目指して油絵の具を捏ねていた青春時代でしたが、ひょんなことから報道写真の道を歩まれたそうです。


 写真集の内容は、
 「あの時」
 スペイン経済使節団、ビルマ人来日、ヒトラーユーゲント来日、日米学生会議、日独伊三国同盟婦人祝賀会、ABCC、原爆ドーム、銀座四丁目P・X、米軍専用車、東芝ゼネスト、聖母病院、メイド学校、マッカーサー司令部、ひな祭り、音楽伝道、進駐軍兵士横行、生きたニュールック写真展、尼衆学校、永平寺、芸妓学校、バレエ全盛時代、ストリップショー、女子保安隊誕生、街頭スナップ、善男善女、市川少女歌舞伎、蟻の街、原水爆禁止大会、警職法改正反対、三井三池争議、安保闘争、樺美智子の葬儀、大喪、


 「あの人」
 グレン・ショウ、井伏鱒二、山田耕筰、中村汀女、尾崎士郎、大仏次郎、徳富蘇峰、芹沢光治良、マッカーサー夫人、三笠宮家、松岡洋子、神近市子、室生犀星、坪井栄、沢田美喜、菊田一夫、岸恵子、吉屋信子、佐多稲子、三岸節子、江間章子、杉村春子、リッジュウェイ夫妻、ザビア・クガート楽団、ケニー・ダンカン、フローレンス・マリー、花森安治、大塚末子、桑沢洋子、藤原あき、白井義男、力道山、木暮実千代、越路吹雪、藤山一郎、笠置シズ子、美空ひばり、マーガレット・オブライエン、貝谷八百子、谷桃子、笹田繁子、服部智恵子、梅村レイ子、江口隆哉、宮操子、巌本真理、藤沢嵐子、中村メイコ、朝丘雪路、大宅壮一、石垣綾子、奥むめお、猿橋勝子、植村環、加藤シヅエ、三船久蔵、升田幸三、三木武吉、浅沼稲次郎、


 のようになっています。


 1990年初版なのでおそらく古書でしか入手できないと思います。ぼく自身も画集写真集専門の古書店で買いました。古書店のシールを剝がしましたら1400円でした。割安感があります。サイン入りは安くなるんでしょうか。定価は2000円とあります。


 写真集は昭和15年~昭和35年まで撮影されている見事な写真が多いです。コントラストが良く黒の締まりがいいです。ライカで撮ったものが多いようです。最後の2ページだけ平成元年に撮られています。


 巌本真理(ヴァイオリニスト)のスナップなどはヴァイオリンを手にして調弦している何気ない瞬間ですが、混血らしい顔の白さや腕の優美な肌質までもモノクロで表現されています。

江戸漢詩 美人の半面

 秋山玉山(1702-1763)の漢詩を紹介します。


 美人の顔半分が見えたという詩です。


 無題        秋山玉山


 美人下空階
 猶掩氷紈扇
 忽被軽風吹
 容易見半面


 五言絶句です。


 韻は扇と面です(去声十七霰)。一句めは韻を踏みません。三句めは転句です。


「読み下し文」
 美人 空階(くうかい)を下る 猶お 氷紈扇(ひょうがんせん)を掩(おお)う
 忽ち 軽風に吹かれて 容易に 半面(はんめん)を見る


 (注)空階=人のいない階段。 氷紈扇=斉国に産する氷のように透き通って清らかな白い練り絹のうちわ。 忽=たちまち。 被=受け身の助字。


「現代語訳」
 美人は人のいない階段を下りるのにも、なお氷のように清らかな紈扇で顔を掩(おお)い隠している。が、ふっとそよ風に扇が吹き動かされて、たやすく顔半分が見えた。


                           (参考:岩波書店)

わたらせ渓谷鐵道(渡良瀬川)

 わたらせ渓谷鐵道(群馬~栃木)はレトロな車両で趣きがあります。何度か乗りました。初めて行った日、一旦東京へ戻って翌日また行ったことがあります。今や脳梗塞の後遺症で乗れませんが、時々風景を想い出して懐かしがっています。


 三度めぐらいの時、ちょうど中国人観光客の団体と乗り合わせて彼らが大声で喋っていた光景を思い出します。その時だけは不愉快になりました。昨今の爆買いの言葉もまだない7、8年前のことです。


 せっかく昔風の列車(といっても一、二両ですが)に乗ってガタゴト揺れながら、窓外の山あいや森林、渓谷を楽しんでいたのに旅の思いが全部吹き飛びました。


 ぼくは浅草から行って桐生駅で乗り換えてわたらせ渓谷鐵道に乗り込んだのですが、中国人観光客はぼくが腰かけた後乗ってきました。彼らは窓外の風景には全く興味がないようでお互いにペラペラ喋りまくっていました。



 彼らは神戸(ごうど)あたりでいっせいに降りました。そのとき初めて気づいたのですが、日本人女性が引率でした。女性は決まり悪いような表情で中国人たちに号令をかけて降車を促しました。注意しても言うことを聞かない性格だと知っていたからでしょうが、そのころはまだぼくも彼らがそういう性格だと知らなかったので何て不甲斐ない引率だと呆れ返っていました。


 渓谷鐵道はさらに沢入(そうり)、原向、通洞(つうどう)、足尾、間藤(まとう)と行きます。間藤が終点です。


 間藤の先へはタクシーに乗っていくと(通洞でタクシーに乗るのが便利)、庚申山とか皇海山が見えてきます。庚申山と皇海山の向こう側は中禅寺湖があります。


 タクシーの運転手さんを待たせて松木渓谷を歩いたことがあります。渡良瀬川の浅瀬の石や砂利の足元を確かめながら渡ったりして写真を撮りました。


 1時間ほどで戻るからと言伝て、山の中をずっと奥まで歩いていったこともあります。
 山とか谷というのは引き込まれるような魅力がある、とその時初めて知りました。運転手さんを待たせていなかったらずっとどこまでも行きたい気持ちでした。


 渓谷に掛かっている橋のすぐ手前にも一般住宅が建っています。運転手さんと同行して道を訊いたりしました。山あいに住んでいても都会人と変わらぬ格好の人が出てきました。ぼくが首から提げていたライカを興味ぶかげに見ていました。


 山より手前にダムがあって近くの記念館に寄って見学したこともあります。熊よけの鈴なんかも売っていました。


 それ以来山には神がいて昔の人は信仰心を持っていたというのが納得できました。本当はハイキングみたいな感じで山の稜線を歩いてみたいと思っていましたが、それさえも今は叶わぬ夢です。


 わたらせ渓谷鐵道は大正3年に創建されたので東京駅駅舎建築と同じ歳です。

ハイデガーの世界内存在

 伊藤吉之助という人は1918年フライブルグに留学しました。ハイデガーと出会っています。



 ハイデガーより4歳ぐらい年上の伊藤ですが、ハイデガーによる個人教授と言いますか、伊藤の下宿先にハイデガーが出向いたので個人授業ですね。


 そのころ日本は裕福ですから下宿といっても数部屋も確保している下宿です。もったいないのでハイデガーの授業は学友4人で受けていたようです。
 ちなみに同時期には九鬼周造はサルトルの個人授業を受けています。


 ある日、学友たちは釣りに遊びに行こうということになり天野貞祐(後のカント翻訳で有名な学者)も合流するから、ハイデガーの授業をサボってしまえと伊藤は誘われてタクシーに乗り込みました。

 狭い路地を行くと向こうからハイデガーが歩いてきました。すれ違う時、車内の伊藤らは顔を隠してうずくまりました。


 授業をすっぽかされたハイデガーはカンカンだったようです。


 1919年か1920年に伊藤が卒業する際ハイデガーに悪いと思ったので、おわびに岡倉天心の『茶の本』のドイツ語訳を手渡しました。

 『茶の本』は岡倉が英語で著したもので、その中に荘周の『荘子』の「処世」を引用していて、「処世」を岡倉はbeing in the worldと書きました。ちなみに荘周はアリストテレスと同時代です。


 being in the worldはドイツ語だとIn der Welt seinとなります。それを日本語に翻訳して「世界内存在」となりました。
 ハイデガーは『存在と時間』(1927年:1923年草稿~未完)において「世界内存在」を採用しました。


 「処世」が一周回って「世界内存在」になってしまったのです。


 ハイデガーは後年、親鸞の思想を著した『歎異抄』(唯円)に感動したそうですから東洋思想にかなり興味を持っていたと思います。
                            (参考:今道友信著作)


 最後に脱線しますが、九鬼周造は芸妓の子らしいです。しかも岡倉天心の種ではないかという下衆な憶測も巷に流れています。

頼山陽とその時代

 頼山陽は変わった人だったようです。癇癖症(かんぺきしょう)が持病でした。宿痾(しゅくあ=持病)なんて難しい言葉も出てきます。現在でいうと躁鬱病でしょうか。


 しかも物欲、性欲が強く、ひとが持っている硯(すずり)など気に入ってしまうと、あらゆる手段を尽くして手に入れようとしました。


 恋愛のほうもわりと盛んで平田玉蘊とか江馬細香と交際しました。
 玉蘊は(ぎょくうん)と読みますが、生地広島尾道では(ぎょくおん)と呼ばれています。玉蘊は絵を流麗かつ優雅に描き漢詩も優れた、才色兼備の女性でした。


 山陽と玉蘊は結婚寸前までいきましたが、玉蘊が京都に出向いた際あいにく山陽と会えずすれ違いになって結局結ばれませんでした。


 続いて山陽は江馬細香(えまさいこう)と出会いひと目ぼれします。細香は瓜実顔だったといいます。細香も漢詩の才能が抜群で山陽の理想の相手でしたが、細香の両親の反対にあい結婚できませんでした。
 「白鷗社集会図」という絵に細香が描かれています。張紅蘭(梁川星巌の妻)も細香の隣りに描かれています。


 山陽は世話女房型の梨影(りえ)という女性と所帯を持ちます。山陽の父頼春水は結婚に反対しました。梨影はひらがなしか読めない人でしたが、山陽の嫁として恥ずかしくないように努力して漢字や書道を修練しました。絵も習ったそうです。


 ですが、山陽と細香の仲は続いており、愛人として、というより現代風に言えばパートナーとして公認の仲だったようです。サルトルとボーヴォアールみたいなものでしょうか。


 山陽は旧暦では1780年12月27日生まれですが、グレゴリオ暦にしますと1781年1月21日生まれです。
 細香と玉蘊は奇しくも同じ1787年生まれです。ショーペンハウアーより1歳上です。
 (その後玉蘊は細香より1歳乃至2歳上だと判明しました)

 山陽の叔父頼杏坪(きょうへい:山陽の父春水の弟)は1756年生まれでモーツァルトと同年です。ちなみに2歳下は松平定信や良寛さんがいます。
 梨影は1797年生まれです。シューベルトと同年です。


 山陽は若いころ脱藩という切腹にも科されるような重罪を犯しますが、自宅の離れに幽閉されるだけで何とか収まります。それが逆に効を奏し『日本外史』の種を生むことになりました。
 大塩平八郎(1793ー1837)に影響を与えた山陽ですが、『日本外史』は幕末の志士たちにも大きな影響を与えました。


 見延典子の『頼山陽』は通読しましたが、肝心の中村真一郎の『頼山陽とその時代』は途中です。