昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

カチューシャの歌、 オッペケペー節

 祖母はよく松井須磨子の「カチューシャの歌」(詞島村抱月・相馬御風、曲中山晋平)を鼻歌で歌っていました。祖母の女学校時代、同時に教会に通っていたころに流行った歌です。
 「カチューシャ可愛いや わかれのつらさ~」


 どういうわけか祖母はいつも「わかれのつらさ」のところを大げさに高く調子っぱずれに歌いました。どうしてかわからず祖母の亡くなった後インターネットが普及して、元の松井須磨子が極端に調子っぱずれに歌っていたことを知りました。それを真似ていたのです。

大正を拾って カチューシャの歌 松井須磨子 A調


 松井須磨子が自殺した大正8年ごろ、芸術劇場のあった牛込區横寺町というのは神楽坂のすぐ隣の町です。(路地に入るとすぐ)このあたりに住んでいる人はたいがい神楽坂在住と言います。そうしないと未知の人は判りません。近くには尾崎紅葉邸跡もあります。


 あと歌って聞かせてくれたのは川上音二郎の「オッペケペー節」です。
 「ままにならぬは 浮世のならい 飯(まま)になるのは 米ばかり
 ア、オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポ~」
 これなどは明治のころの歌ですが、ずっと語り継がれてきたのでしょう。最近思い出しました。


 他は添田唖蝉坊の「ノンキ節」が記憶にあります。

赤坂氷川町、福吉町、麻布今井町

 赤坂區氷川町、福吉町、今井町(麻布區)は現在の赤坂6丁目、2丁目、六本木2丁目あたりになります。
 赤坂氷川町には氷川神社があり、かつて氷川小学校もありました。氷川小学校のところは元は勝海舟の邸宅がありました。

 路地をはさんで向かいが赤坂福吉町になっていましたが、九條邸や一條邸もあったようです。その先の広い敷地は黒田邸でした。
 そのあたりに赤坂6丁目と2丁目のちょうど境界線の路地がありますが、現地に行ってみると抜け道マップに載っているのか、けっこう車がひんぱんに入ってきます。


 麻布今井町は赤坂氷川町と福吉町に接しているところでした。三井邸がありました。映画「月光仮面」に映る屋敷は別のものかもしれませんが、今井町という地名はまだ残っていました。


 福吉町(赤坂2丁目)の五差路の交差点の角に交番がありますが、その脇の緩やかな坂に昭和40年代まで人力車がずらりと停めてありました。芸者さんが料亭までの短い距離でも車屋さんを呼んでいたようです。


 祖母がよく「福吉町の〇〇」と言っていたのでお得意さんがいたようです。

ママと呼ばないで

 70年代半ばですから昭和50年ごろですね。そのころはもうバンカラ学生というのはほとんど姿を見せませんでしたが、友人の中に一人バンカラを気取ったひとがいました。

 ジーンズに長髪ここまではみんなと同じです。それなのに下駄を履いていました。髪も少しなびかせる感じで女性的な長髪とはちょっと違います。

 初対面のころはジョン・レノン風の円いメタルフレームのメガネをかけていたのですが、後年レイバン風のフレームになりました。

 下駄を鳴らして奴が来る、腰に手ぬぐいぶら下げて(^^♪はいなかったですw


 その彼がうちに泊まった夜、自宅に電話したのをうちの母が偶然聞いていたのを後日知りました。彼の口から

 「ママ」という言葉が聴こえてきたそうです。

 一見バンカラ風の彼がママと呼んでいたのには仰天しました。もっとも彼には妹がいましたから電話口に妹が出てママに伝えておいてという話だったかもしれません。

 実際うちも妹が生まれてから両親をパパママと呼ぶようになりましたから。あのころは猫も杓子もパパママと呼ぶ子どもが多かった気がします。

 それでいて学校や友人と会っているときは、おやじおふくろと言っていたように思います。


 近年はまたおとうさんおかあさんと呼ぶ風潮が戻ってきたようですが、そう呼ぶのが大人になった時も違和感なく、良いのではないかと思えます。

セルジュ・ゲンスブール ①

 ゲンスブールの曲に「ラ・シャンソン・ドゥ・プレヴェール」(La Chanson De Prevert)があります。1961年の曲です。「LA JAVANAISE」Vol.2:1961 1962 1963というCDアルバムの先頭に収録されています。



Serge Gainsbourg la chanson de Prévert


 1961年というと昭和36年ですからぼくは小学1年生です。妹はようやく1歳になろうとするころですが、乳母車に乗っている写真を見ると昨日のように思えます。


 上記のゲンスブールの曲は「枯葉」の詞を書いたジャック・プレヴェールという詩人に向けた歌です。歌詞の意味は「枯葉」はすばらしいけれど自分も負けずにいい歌を作る、というような内容だとどこかで読みました。

 ぼくはここ数年この歌というか曲が気に入って耳コピでコード進行を探ったりしました。そうしていたらYouTubeでコード進行をレクチャーしているのを見つけました。それほど難しいコードではありません。


 ただ歌う人によってキーが変わるのでライブの動画(歌ってみた、みたいなもの)によってコードも移調したりしています。

 それとフランス語の歌詞には悩まされました。ゲンスブールの歌声だけでは聴き取れません。CDのリーフレットに歌詞は載っていますが、初めのうちは必死にカタカナに置き換えていました。

 一昨年入院している間ベッドの上で退屈でしたからウォークマンでこの曲を聴いていました。ウォークマンにはこの曲しか入っておらず、他はラジオを録音した講座のファイルしかありません。日がな一日この曲を10回ずつぐらい聴き、他の時間は時々入ってくるウォークマンのFM回線の放送大学の講義を聴いていました。

 担当の医師とはインフォームドコンセントのことで折り合いが付かず、険悪になりましたが、皮肉にも医師の声がゲンスブールそっくりでした。顔は恐ろしいのに声だけはソフトでシャンソンでも歌えば抜群の美声でした。
 ぼくらの世代では数年前に亡くなった芦野宏の歌声を想起させます。

ノーシン ハッキリ

 昭和30年代、頭が痛いとノーシンとかハッキリを飲みました。どちらがどちらかは覚えていませんが、白っぽい薄紙に包まれた粉薬でした。赤い薄紙のもありました。風邪薬や熱さましが赤い薄紙だったかもしれません。あの赤い薄紙はいつの間にか消えました。オブラートで包む習慣が広まり錠剤やカプセルで飲むほうが多くなったのは70年代からでしょう。


 昭和39年ごろの大映映画「卍」には赤い薄紙の薬を飲むシーンが出てきます。あれは睡眠薬でした。赤い薄紙を三角に折って粉薬を口に送ります。いかにも薬を飲んでいるという感覚で効き目がありそうな感じでした。映画には吸い口も出てきます。

 若尾文子、岸田今日子、船越英二が同時に赤い薄紙で薬を含み吸い口で水を飲んだシーンはけっこう壮観です。


 吸い口もいかにも病人臭くて入院でもしないと使わなかったと思いもしますが、よくよく記憶をたどってみると、風邪をひいて部屋で寝ているときに吸い口で水を飲んだことがあります。そのときは病人気分を味わいました。幼稚園のころは休んでばかりいました。