この表紙じゃなかったかもしれません。ポプラ社版とすれば違いますね。
「青銅の魔人」の挿絵。挿絵はこれだったと思います。
甲賀三郎の「姿なき怪盗」
「鍵と地下鉄」この表紙だったか覚えてないですが、右側はジャン・ギャバンに似てますね。
「影男」の一場面。
これは忘れていました。表紙を見て思い出しました。
以上は一部ですが、赤坂一ツ木の古本屋で買いました。
子どものころから財布のひもが固かったので、新刊を買うようになったのは中学生からだったかもしれません。唯一の例外は六年生のころの芥川龍之介(単行本)です。
高輪の四つ角にピーコックがあってそこはけっこうチーズが充実していました。その四つ角というのは、伊皿子です。
で、魚籃坂下にもピーコックはありましたが、もっぱら伊皿子坂上のピーコックです。タクシーの運転手さんワンメーターですみませんでした。(現在は魚籃坂下にしかないようです)魚籃坂の寺には荻生徂徠の墓があります。
バブルの残り香のある妻はマスカルポーネを好んでいましたが、高輪のピーコックは特に好んでいました。ゴルゴンゾーラも好んでいました。
ゴルゴンゾーラ?仕方なく対抗してヴァルデラバノのヴィウエラ曲がいいんだよとか意味不明のメールを返信します。彼女は嫌気が差します。
ぼくも自身の大人げ無さにげんなりするもマスカルポーネの美味さはなるほどと言わざるを得ませんでした。
でも彼女は赤ワインの紙パックを押し入れに隠していました。寝酒のため。
それもショックでした。
何かイメージと違っていたのです。
赤ワインの紙パックは今や便利な一品ですね。
北品川に住んでいたころ、厳しい冬を過ごしました。買物はほとんど大崎のニューシティかゲートシティでした。(ホントに死にそうなときはセブンイレブン)
そのころ2000年代の前半ですが、五反田までは相当遠い。そうなると大崎のニューシティかゲートシティしか買物できません。独りだとホントに侘しいし寒さが身に沁みます。
ダウンジャケットを羽織って義務的にニューシティまでとぼとぼと歩いていきます。
当時はニューシティ内にはなんかダサいスーパーが入ってました。店内のBGMがウザいんです。ドクター元気ドクター元気とウザい歌がずっと流れていました。(数年後見たらライフが入っていました)
でもニューシティよりゲートシティのほうが10メートルぐらい近いです。その10メートルも惜しいぐらい侘しくて寒い。
ゲートシティの地下にスーパーがあってそこで細巻きとお稲荷さんが入った330円ぐらいのパックとウーロン茶かなんかを買うだけのために行くのです。
生きるためでした。
そのころは妻を亡くし毎日死ぬことばかり考えていましたから、食欲もなく、だからと言って医者から処方された薬を飲むのに空腹では具合が悪い。仕方なく食べ物を買うわけです。それもなるべく重くなく値段も安めのを選びます。
生きる力は無くなっているものの、元来がケチなのでいいものが買えないのです。細巻きはもちろんかんぴょう巻きです。美味しくも何でもありません。
ゲートシティの1Fにはスターバックスがあってでもそこで本を読もうにもエスカレーターの真上にはお子様が遊んでいると危険です、と5秒置きにアナウンスされます。のでとても集中なんてできません。
大崎のニューシティで本格的な中華の店がありました。そこで1800円ぐらいの堅焼きそばを食べたことがあります。北品川に住んだばかりでちょっと余裕があったと思います。
安い中華の店でサラリーマンの群の中に混じってランチを食べたこともあります。
大崎界隈は開発途中でした。直後に「結婚できない男」というドラマで阿部寛とかのロケに使われたようです。そのころはもっと大崎も開発されてました。
今でこそ花見の名所で有名な目黒川ですが、大崎ニューシティやゲートシティへ行くとき渡ります。そのころはだいぶましになっていたそうですが、もう少し前だと臭くて有名だった目黒川です。
川に身投げして助けられて、女性社長にまでなった人の話も聞いたことがあります。
ニューシティの唯一の良さはルノアールがあって(現在はありません)そこで司馬遼太郎の『空海の風景』などを読んだことです。店内に噴水があってマイナスイオンが撒かれていたと思います。会話のマスキング効果もあったと思います。