白楽天(白居易)は昭和40年代までは李白杜甫より人気があったのではないか? 白楽天は772年生まれで、空海は774年生まれ。2歳違い。空海が遣唐使で中国に渡ったときにすれ違ったかもしれない。 夢枕獏の小説では柳宗元(773年生まれ)や韓愈と会ってしゃべっている場面がある。フィクションだろうか... 続きをみる
漢詩のブログ記事
漢詩(ムラゴンブログ全体)-
-
-
-
絶海中津(ぜっかいちゅうしん1336-1405)は土佐の人。天竜寺の夢窓疎石に侍し、その高弟・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)の薫陶を受けた。 33歳で明に留学。『蕉堅藁』(せうけんかう)は中津自ら厳選した。 『蕉堅藁』より「永青山の廃寺」を紹介します。 永青山廃寺 永青山... 続きをみる
-
-
-
柏木如亭の『詩本草』から「笋」(たけのこ)についてのエッセイを紹介します。 笋 村居(そんきょ)自(おの)づから山を看る福有り 又た喜ぶ 今朝野珍を嘗(な)むるを 屋外の霜筠(さうゐん) 犢角(とくかく)を生ず 雪天 時新と称するを屑(いさぎよし)とせず ... 続きをみる
-
-
寒山については分かっていることが少ないです。注釈書は日本人のものばかりです。 昨夜夢還家 昨夜夢に家に還り 見婦機中織 婦の機中に織るを見る 駐梭若有思 梭(ひ)を駐(とど)めて思い有るが若(ごと)く 擎梭似無力 梭を擎(ささ)げて力無きに似たり 呼之廻... 続きをみる
-
唐の詩人王維は十五歳のころ山西省から受験勉強のために都の長安に出ました。 勉強の合い間に上流階級の家に出入りして実力を認めてもらっていました。 王維の場合、絵と詩と音楽に秀でていたため王朝でも評判になり、サロンの寵児になりました。 二十歳ごろ(数えで二十一)進士に及第しました。 自注に年... 続きをみる
-
-
盧照鄰は初唐の四傑の一人、王勃と玄武山に登り、このとき旅に出る邵大震と共に競作の形で残っています。手法は王勃と似ています。 九月九日登玄武山 九月九日玄武山に登る 九月九日眺山川 九月九日 山川を眺む 帰心帰望積風煙 帰心帰望 風煙積む 他郷共酌金花酒... 続きをみる
-
-
映画監督川島雄三の墓碑銘に刻まれた言葉、「サヨナラだけが人生だ」は井伏鱒二の『厄除け詩集』に収められています。 原典は于武陵(うぶりょう)の「勧酒」という詩です。五言絶句の後半二句は、 花發多風雨 花発(ひら)けば 風雨多し 人生足別離 人生別離足る これを井伏鱒二が訳し... 続きをみる
-
陶潜(陶淵明)の有名な雑詩のくだり、最後の二句「時に及んで当(まさ)に勉励すべし」です。 続いて「歳月は人を待たず」とあります。 一応原文を掲げておきます。 及時當勉勵 歳月不待人 結句は、年月はどんどん流れていって、ひとを待ってはくれないのだから。と訳します。 となると、その手前は... 続きをみる
-
島田忠臣は828年に生まれました。祖父の清田は『経国集』の詩人で、忠臣自身は菅原道真の父是善の門下生でした。忠臣の娘は菅原道真の妻になっています。 鏡に我が身を照らして「照鏡」は明鏡の意もありますが、ここは、「照」を動詞に読みます。 照鏡 鏡に照らす 勿論同人與異人 ... 続きをみる
-
一休宗純(応永元年1394年生まれ)の漢詩を紹介します。 泉涌寺雲龍院の小松院古廟に春遊す 定中唯有白頭僧 定中(じょうちゅう) 唯だ白頭の僧有れど 何記鑾與鳳輦曾 何ぞ鑾與鳳輦(らんよほうれん)の曽(むかし)を記せん 天上風流泉下魄 天上の風流 泉下の魄 松梢... 続きをみる
-
-
梁川紅蘭は梁川星巌の妻です。中国風に張紅蘭とも名乗っていました。19世紀初めの生まれで、文政七年(1824)の21歳作の「夏日閒詠」を紹介します。 夏日閒詠 夏日閒詠 倦抛鍼線慵重理 倦みて鍼線を抛(なげう)ちて 重ねて理するに慵(ものう)し 汗珠透衣睡方起 汗珠(... 続きをみる
-
-
宮沢雲山は安永九年武蔵国秩父に生まれました。現在は埼玉県にあたります。 文化十二年に雲山は北遊から戻って江戸に出ました。北原秦里、梁川星巌と共に『今四家絶句』を選輯(せんしふ)しました。 今四家とは市河寛斎、大窪詩仏、菊池五山、柏木如亭のことです。雲山は寛斎の門下です。 梁川星巌は西遊する... 続きをみる
-
-
市河寛斎の北里歌は三十首ありますが、その四を紹介します。 四 四 銀燈院々暗残光 銀燈 院々 残光暗く 跡断春風響屧廊 跡は断ゆ 春風の響屧廊(きょうしょうろう) 雲雨枕頭宵撃柝 雲雨枕頭(うんうちんとう) 宵に柝(き)を撃ち 不教郎夢到... 続きをみる
-
柏木如亭の『詩本草』から「いな」を挙げます。 鯔(いな) 遊讃既に倦み、舟を買ひて備に回(かへ)る。時に十二月十五、天晴れ風静かにして、大小の諸島争ひて図画を献ず。 舟中復た一点の寒無し。乃(すなは)ち居停(きょてい)主人餽(おく)る所の鯔(いな)を焼いて晩食す。 その味奚(なん)ぞ止... 続きをみる
-
白楽天の詩を柏木如亭が訳したものを挙げます。 聞亀児詠詩 亀児が詩を詠ずるを聞く 白楽天 憐渠已解弄詩草 憐れむ 渠(かれ)が已に詩草を弄することを解するを 揺膝支頤学二郎 膝を揺がし頤(あご)を支へて二郎を学ぶ 莫学二郎吟太苦 学ぶ莫れ 二郎が吟に太... 続きをみる
-
中島棕隠の京都の風情を詠った詩です。 鴨東四時 鴨東四時雑詞(おうとうしじざつし) 其九十一 其の九十一 繊手鳴刀各慣忙 繊手 刀を鳴らして 各々忙に慣る 店頭菽乳照紅裳 店頭の菽乳(しゅくにゅう) 紅裳(こうしょう)を照す ... 続きをみる
-
嵯峨天皇は桓武天皇の皇子、大同四年(809)に生まれました。 「寒食」の季節にぶらんこ遊びする宮女たちの様子を詠じたものです。 「鞦韆」 鞦韆篇(しうせんへん) 嵯峨天皇(さがてんわう) 西日斜 西日(せいじつ)斜(くだ)ち、 未還家 未だ... 続きをみる
-
-
館 柳湾は名は機、字は枢卿で、宝暦十二年(1762)新潟に生まれました。一生を幕府郡代の属史として過ごしました。 柳湾は謹直な官吏であったばかりでなくきわめて口数の少ない寡言の士でもあったらしいです。 詩集は三冊あって『柳湾漁唱』『柳湾漁唱ニ集』『柳湾漁唱三集』です。 晩年、江戸の目白台に... 続きをみる
-
頼杏坪は頼山陽の叔父です。宝暦六年(1756)安芸国竹原に生まれました。 名は惟柔、字は千祺。若くして兄春水に従って大阪に住み、また江戸に出て、服部栗斎に学び、のちに兄春水とともに芸藩の儒官となりました。 杏坪は『春草堂詩鈔』全八巻をものしました。春水と次兄春風と杏坪を頼三兄弟と呼ぶのですが... 続きをみる
-
大窪詩仏の『卜居集』の中の「晩帰品川」を紹介します。 大窪詩仏 江戸品川高輪 晩帰品川 晩(くれ)に品川に帰る 烟霧高輪暮 烟霧(えんむ) 高輪の暮(くれ) 前途更渺茫 前途 更に渺茫(びょうぼう)たり 潮来呑欠岸 潮(うしお)来(きた)りて... 続きをみる
-
-
-
-
-
-
-
「ロミオとジュリエット」風な漢詩を作った人がいました。 中野逍遥という人です。1867年生まれなので夏目漱石と同じ歳です。28歳で亡くなりました。 思君 訪君過台下 清宵琴響揺 佇門不敢入 恐乱月前調 (読み下し文) 君を訪(と)いて 台下(だいか)を過ぐ 清宵(せいしょう)... 続きをみる
-
-
-
-
大田南畝は1749年生まれ、蔦屋重三郎は1750年生まれ、山東京伝は1761年生まれとほぼ同年代に生きた文人です。 TSUTAYAは蔦屋重三郎に関係ないとのことですが、あやかったそうです。 ちょっと上の世代に唐来三和1744年もしくは1749年、恋川春町1744年、木村蒹葭堂1736年、上田... 続きをみる
-
-
-
-
-
頼山陽と江馬細香が男女の仲になったとされる嵐山での花見の詩を紹介します。 「武景文、細香と同じく、嵐山に遊び、旗亭に宿す」 山色稍暝花尚明 綺羅分路各歸城 詩人故擬落人後 呼燭渓亭聽水聲 擬=ぎ、なぞらふ (読み下し文) 山色稍(やや)瞑(くら)くして、花尚(なお)明らかなり。 ... 続きをみる
-
秋山玉山(1702-1763)の漢詩を紹介します。 美人の顔半分が見えたという詩です。 無題 秋山玉山 美人下空階 猶掩氷紈扇 忽被軽風吹 容易見半面 五言絶句です。 韻は扇と面です(去声十七霰)。一句めは韻を踏みません。三句めは転句です。 「読み下し文」 美人 ... 続きをみる
-
-
色っぽい漢詩を紹介します。先に現代語訳から、 酔美人が夜明けに、悄然と寝室を脱け出て庭に立つ。高い梢のうえの月が、寝乱れた化粧の顔を照らす。花に置く露をすすって、酔を醒まそうとすると、一面の薔薇の匂いに、更に酔ってしまう。 蓮歩悄トシテ移シテ、暁房ヲ離ル。高悄ノ落月、慵粧ヲ照ラス。花辺ニ... 続きをみる