虎ノ門~赤坂 頼杏坪
頼杏坪は頼山陽の叔父です。宝暦六年(1756)安芸国竹原に生まれました。
名は惟柔、字は千祺。若くして兄春水に従って大阪に住み、また江戸に出て、服部栗斎に学び、のちに兄春水とともに芸藩の儒官となりました。
杏坪は『春草堂詩鈔』全八巻をものしました。春水と次兄春風と杏坪を頼三兄弟と呼ぶのですが、杏坪が一番学者らしかったといいます。
於菟門外雨横濠 於菟(おと)門外 雨 濠に横(よこた)う
白藕花辺新水高 白藕(はくぐう)花辺(かへん) 新水高し
葵坂天昏行客少 葵坂 天昏(くら)くして 行客少し
靜看健鯉上飛濤 静かに看る 健鯉(けんり)の飛濤(ひとう)に上るを
於菟門は虎ノ門のことです。横浜の馬車道にもあるようですが、ここでの於菟門は虎ノ門でしょう。虎ノ門ヒルズの近くに金刀比羅宮とその門が現存します。
金刀比羅宮
白藕は蓮の花です。
葵坂は赤坂のことでしょう。
江戸時代には赤坂見附から山王台下を経て虎ノ門に至る広大な池だったという溜池の実景が、ここで詠われたのです。
杏坪は浅野侯に仕えた著名な儒者であり、晩年には郡奉行に抜擢されて国政にまで参与したほどです。それは文化九年七月、彼が五十七歳のときでした。その公務の繁忙にもかかわらず詩作も衰えを見せなかったといいます。
(参考:平凡社)